◇その19◇

その朝のことだ。
いつものように朝食を終えて部屋に戻ってくると、布団が片付けられていて座卓にはギリシャの新聞が置かれている。ミロとカミュが日本語に不自由しなくなってからもギリシャ語の新聞を取り寄せるというサービスは今なお続いており、言葉のわからない国にやってきたカルディアとデジェルには嬉しいことこの上ない。
「おい!これってギリシャ語だぜ!あ〜、安心する。」
「これは新聞というものだ。アテネの病院で見たことがある。世界中の出来事が毎日あらたに印刷されて、家まで配達してくれるそうだ。」
すぐ手に取ったカルディアには毎日というのが驚きだ。
「ほんとか?なんでそんなことができる?ふ〜ん、ずいぶん大きい印刷物だな。ほう、重ねてあるだけで、閉じてない。本というより紙だな。」
「ゆえに二人で分けられるのが利点だ」
「そいつは便利だ!気が利いてるな。」
半分に分けた新聞を珍しそうに読みながらわからない言葉をお互いにたずねあい、それでもわからないものが多いのを見かねたカミュが辞書を持ち出してきた。そのついでに株式欄を見て首をかしげていたカルディアにもっと有意義なページを捜してやる。
「株式ってなんだ?え?辞書に載ってるのか?……ああ、ほんとだ。さっぱり意味がわからないが確かに載ってる。ふ〜ん、こいつはいいな!人類の大発明だ!聖闘士や小宇宙も載ってるかな?おっ、聖域が載ってるぜ!ちょっと意味合いが違うが、まあいいだろう。」
たくさんの項目の中から 『 聖域 』 を見つけたカルディアが百年の知己に出会ったような顔をした。
「私としては文字自体が大発明だと思うが。……ん?環境破壊とはなんだろう?」
「十二宮を叩き壊すことか?あまり感心しないな。」
「いや、そうではなくて………え?空気や水の汚染って?水はともかく、なぜ空気が汚染する?」
新聞を読むというより勉強会の様相を呈してきたのがミロには面白い。日本で言えば江戸時代中期の人間を突然現代に連れてきたようなものなのだから、奔流のような情報に取り囲まれて唖然とするのも無理はない。
「むしろラテン語の新聞のほうが語彙に変化がなくて読みやすいんじゃないのか?いや、そんなものがあるわけはないが。」
「ある。」
「…え?……え〜〜〜っ?!そんなものがあるのか?いったい誰が読むんだ?」
「日常生活では死語に近いがヨーロッパの知識階級では教養を示すものとしていまなお必須とされている。Wikipedia にもラテン語版があるし、メーリングリスト、ブログも存在している。私もラテン語が錆び付かないように時々利用している。」
「ふ〜〜ん、ラテン語なんて聖闘士だけの必修科目だと思ってた。」
「バチカンの公用語はラテン語だ。もっとも公式会見のみで日常はイタリア語だが。」
「聖域の公用語がギリシャ語でよかったよ。俺はラテン語は得意じゃない。」
そんな話をしながらふと見ると、カルディアはごく自然に新聞を読んでいるが、デジェルは見るからに読みづらそうにして目を細めて顔を寄せているのがありありとわかる。
「ひょっとしてデジェルって目が悪いとか?」
「もしかしたらそうかもしれぬ。」
ミロもカミュも視力には問題がないので考えもしなかったが、聞いてみると果たしてその通りだった。
「子供のころはとくに気にもしなかったが、だんだんと目が悪くなり、本を読むのがつらくなった。メガネを使うようになってからはずいぶん楽になったけれど。むろん今は持っていないが。」
デジェルが寂しそうに笑った。
「闘いに赴くときにはメガネは不要だった。敵の顔が多少ぼんやりしていても闘うのにはなんの問題もない。もともと読書のときしか使っていなかったし、聖戦に突入してからはそれどころではなくなった。メガネは宝瓶宮に置いてきたままで私は死んだのだから。」
「デジェルのメガネのことはよく覚えてる。聖衣の次くらいに大事にしてた。俺は聖衣のほかにはとくに何も必要とはしてなかったが、今じゃ、その聖衣も俺のものではない。寂しくないといえば嘘になるが、俺の前にも蠍座の聖闘士はいた筈だし、継承とはそういうものだと理解してる。」
そういえば、カルディアもデジェルも何一つ私物を持たずに甦ったのだ。現世に持ってきたのは記憶だけだった。
「ところでほかの黄金聖闘士も私たちのように甦ることが出来るのだろうか?もう一度会えたら嬉しいのだが。」
「さあ…? そのあたりは俺たちにはわからないが、そのうちにアテナにお伺いしてみよう。童虎とシオンは知っているかもしれないが。」
そのことは四人とも気になっている。一度に全員を甦らせるなどとても出来そうにないが、第一陣のカルディアとデジェルが落ち着いたら順次ほかの者たちも蘇生させるように思われた。
「俺の心臓が予想外に手がかかったから、たぶんそのせいで遅れてるんじゃないかと思う。悪いことをしたな。俺が元気で飛び跳ねてたら、きっととっくに全員が甦ってるんじゃないのか?」
「気にすることはない。後から来るほうが受け入れ側も慣れてきて、スムーズにこの時代に適応させる体勢が整うことだろう。」
「だといいんだが。もし俺が早々に死んだら計画が頓挫するかもしれないと思うと、ちょっと焦るな。責任重大だよ。」
「カルディア!そんなことを…」
気軽に言った言葉がデジェルにはきつかったようだ。さっと蒼ざめて唇を噛み、声が震えてあとが続かない。
「あ〜、すまん、悪かった。大丈夫だ、俺はずっと生きるから。約束する。今朝の薬もちゃんと飲んだのを見てただろ。」
「ん…そうだな。」
そのときもデジェルはカルディアが薬の袋から取り出した何種類もの錠剤を目を細めて確認していた。小さなアルミパックに封入された色とりどりの錠剤の名前はごく小さな活字で記されており、とても読みにくかったに違いない。
そのときいいことを思いついたのはミロだ。どうしてもっと早く気付かなかったのだろう。
「おい、デジェルにメガネを買えばいいんじゃないのか?きっと、すごくよく見えるようになるぜ!駅前に店があったはずだ。」
「なるほど!思いもしなかったが、それはいい考えだ!店が開いたらすぐに行くのがよかろう。」
「メガネを買えるのか?たしかにこの時代の人間はメガネをかけている者が多いが、メガネはとても高価だろうし。」
「う〜ん、メガネの値段は俺も知らないな。」
「私もご同様だ。」
テレビコマーシャルはよく見かけるが、価格については二人ともまったくの門外漢だ。高いも安いもわからない。
「でも子供だってメガネをかけてるくらいだから、そこまでは高くないんじゃないか?それに費用のことは心配しなくてもいい。すべてアテナが受け持ってくれるって話だし、俺たちも資金は潤沢だからなにも気にすることはない。」
「ん…すまない。」
「費用のことを言ったら、俺の心臓移植なんてどうなるんだ?あれにかかった金で、メガネが山のように買えるんじゃないのか?」
「そりゃそうだ。だから気にすることはないんだよ。それにしても顔は一つしかないのに、メガネを山のように買ってどうするんだ?ムカデの靴じゃないんだが。」
ミロの冗談とメガネを買うという希望がデジェルを喜ばせ、思わず笑みがこぼれる。
カミュがフロントに電話をかけてメガネを購入する相談をし始めた。