◇その20◇

「初めてお買い求めになるのでしたら、メガネのほかにコンタクトレンズというのもございますが。」
早めの10時のお茶と一緒に駅前のメガネ店の地図をプリントアウトして持ってきた美穂が思いがけないことを提案してきた。
「え?ああ、そういえば広告はよく見かける。」
「コンタクトって目に小さいレンズをくっつけるやつだろ。あれってどうにも不思議だが。なぜあんなことをして平気なんだ?ほんとに使ってる人間なんか見たことないぜ。」
ミロが知らないのは当然だ。メガネと違って、コンタクトは使用しているのが他人にはわからないというのが特徴の一つである。
「コンタクトなら、私が使ってますわ。」
「えっ!美穂ってコンタクトなのか?!」
「ほんとに?」
「はい、ここのスタッフの半分以上はコンタクトを使っております。」
「それは知らなかった!」
日本国民の10人に1人はコンタクトレンズを使用しているという統計もあるが、二人はそんなことは知りもしない。自分たちの目がいいので、メガネをかけていない人間はすべて目がいいと思いこんでいるのはなにもミロとカミュだけではあるまい。
「就職したときにコンタクトにしたんですの。最初はこわごわでしたが、慣れると何でもありませんのよ。」
「ふ〜ん、まったくわからないな。ほんとにレンズが入ってるの?」
ミロに至近距離まで顔を寄せられてしげしげと目を覗き込まれた美穂が真っ赤になった。ミロの青い目は美しすぎて心臓に悪い。 
← 羨ましすぎ!
なんのことやらわからなくて不審そうにしているカルディアとデジェルにカミュが手短かに通訳すると、ミロよりももっと信じない顔をしている。
「それでしたらちょっとはずしてご覧に入れましょうか?そのほうがよくおわかりになりますし。」
「えっ!ここではずせるのか?」
「ほう…!」
「ええ、ちょっと手を洗ってまいりますね。洗面台を拝借いたします。」
美穂が立ってゆき、四人がいっせいに喋り始めた。
「眼球にレンズをつけるなんて私は信じられない!」
「そんなことしたら痛いに決まってるし、だいいち目を閉じられないだろうが!レンズって厚みがあるんだぜ!まつげが入っても痛いっていうのに!」
「いや、日本だけではなくて先進国ではかなり普及しているはずだ。」
「店の数は多いし、駅前でやたらティッシュを配ってるし、需要はあると思うぜ。理屈のほうは俺もすごく不思議だけど。」
「しかし有り得ない!仮に痛くないとしても下を向いたら絶対に落ちる!」
「なんでそんなとんでもないことを思いついたんだ?メガネのなにがいけない?」
「でも、コンタクトだとメガネみたいに邪魔にならないから、聖衣で闘うときにも使えて便利ってことはないか?」
ミロの思うに、聖衣にメガネは噴飯ものだが、コンタクトなら美観を損ねないのである。とくにあの美しい水瓶座のヘッドパーツにはメガネは似合わなすぎる。

   シャカに五感を剥奪されても黄金は黄金らしく闘ったぜ
   ああ……あのときのカミュは目も見えなくて……
   ほんとにハーデス戦はきつかった…

ミロが感慨に耽っているとデジェルがそれに関連したことを言い出した。
「目にレンズをつけたまま闘うなんて、そんなことは考えられない!アスミタみたいに目を閉じていても闘えるように修行すればいい!そのほうがはるかに論理的だ!」
「アスミタって?……もしかして乙女座?」
「なぜわかる?」
「なぜって…」
水瓶座の二人の性格がこれほど似ていることを思えば、乙女座が常に目を閉じていることは常識中の常識だろう。ついでに言えば蠍座も明らかに好戦的だ。
「そういえば、ミロ、レーシックというのがあったのではないか?あれなら戦闘時にも問題はないはずだ。」
「レーシックか!」
「レーシックって?」
「手術によって視力を回復させる方法だ。」
「手術っ?!目の手術だって??!!」
「冗談じゃないぜっ!デジェルに目の手術なんか、させないからなっ!俺は反対だ!デジェルの目は宝なんだからなっ!」
「カルディア、落ち着いて!私はそんなことはしないから!」
デジェルは自分の目のことよりもカルディアの心臓のことが気になって仕方がない。侃々諤々の議論の中を戻ってきた美穂が部屋の隅にある輪島塗の鏡台の前に座った。むろんふっくらした座布団は脇によけている。
「鏡の前のほうがよろしいですので、恐れ入りますがこちらへおいでいただけますでしょうか?」
興味津々の四人の聖闘士が美穂をぐるりと取り囲んだ。これはきわめて珍しい光景だ。というより贅沢すぎるだろう。
「慣れないとやりにくいかも知れませんが、こんなふうにまぶたを押さえまして、ここをこうやって…。」
と言いながら右目に人差し指を当てた美穂があっという間にレンズをはずして見せたので、一斉に どよめきが上がる。美穂の手のひらに乗っているレンズは予想よりも小さくて薄い。
「すごい!」
「信じられないっ!」
「ふ〜ん、ほんとだ。」
「ほう!」
みんなが美穂の手元を覗き込み、たしかに透き通った小さいレンズが乗っているのを珍しそうに見る。ミロもカミュも実物を見るのは初めてだ。美穂の手のひらの上に二人の知らない世界があった。
「コンタクトにはハードレンズとソフトレンズがありまして、私の使っているのはソフトです。こんなふうに柔らかいんですのよ。」
美穂がレンズをつまんでくにゃっと曲げたので嘆声が上がる。
「えっ、ガラスじゃないのか!なぜそんなものでよく見えるようになるんだ?!」
「素材は?」
ギリシャ語で発せられたもっともな疑問にはカミュが、あとで調べるから、と返事をした。知らなかったのは悔しいが、あまりにも縁がなかったので仕方がないだろう。
「毎日取り替える使い捨てタイプのものとか、一週間ごと、二週間ごとに取り替えるタイプのものもありますわ。」
「使い捨てって、ゴミにするってことか?いや、それじゃエコじゃないな。もちろんリサイクルしてるんだろ?」
ミロの発想はもっともだが、あいにくそうではなかった。
「いいえ、捨てますのよ。コンタクトレンズにはたんぱく質や脂質などの汚れがつきますので毎日の丁寧な洗浄・消毒が欠かせません。それを怠ると細菌が繁殖して感染症などを引き起こすこともあるんですの。」
「感染症っ!」
逐語訳していたカミュの言葉に敏感に反応したのはもちろんカルディアとデジェルだ。
「でも毎日取り替える使い捨てのコンタクトだとその危険がないので、洗浄の手間もなくて便利だそうです。」
「ふ〜〜〜〜ん!知らなかった!」
すべてがトリビアである。

結局コンタクトの採用は見送られた。嵌め方、はずし方、位置がずれたときの直し方、日常の手入れ、その他もろもろの注意事項をカミュの通訳で聞いたデジェルが怖気を振るったのだ。
「だめだ、できない。せっかく説明してもらって申し訳ないが、少しでも眼球に傷がついたり感染症になる可能性があるのではとても無理だ。」
「俺もそう思う。俺はもう一度メガネをかけたデジェルが見たい。お前にはメガネが似合ってる。」
きっぱりとしたカルディアの言葉にデジェルが少し頬を染める。

   おいおい、これってちょっとあれじゃないか?
   まあ、俺も似たようなことは始終言ってるような気もするが
   ふうん……他人から見るとけっこうわかるもんなんだな…

おのれの過去の言動を省みたミロがほんのすこし頬を染め、デジェルの気分を察知したカミュがわずかばかり横を向く。
かくてコンタクトレンズの実演は四人に深い感銘を与えた。
「ではお出かけの時にはフロントにお申し付けください。お車をご用意いたします。」
お辞儀をした美穂がお茶の盆を持って下がっていった。