◇その21◇
「ここだ。」
「ほう!」
デジェルを連れたカミュが店内に入っていった。
ここは登別駅前にあるメガネ店だ。存在は知っていたものの、入る理由のなかったカミュだが今日は特別だ。
「いらっしゃいませ!」
明るい声で迎えられたカミュがちょっと緊張しながら、
「メガネを買いたいのですが。」
と店内を見回した。どうしてこんなにと思うほどたくさんのメガネが並べられ、とてもではないがどれを選んでいいのかわからない。デジェルのほうはカミュよりもはるかに目をみはり、驚いているのが明らかだ。
「まったく初めてなのですが、どれを選べばいいでしょう?。」
「ではどうぞこちらへお越しください。まず視力をお測りいたします。」
なるほど、と思ったカミュがデジェルを促して奥に進むと、視力の計測器らしいものが載っているテーブルのこちら側にある椅子に座るよう勧められた。
「ここに座って視力を測るのだそうだ。視力とは目で物体を認識する能力のことで、それに応じて適合するレンズを使うことになる。レンズの選定は専門家に任せればよい。」
「素晴らしいシステムだな。ワクワクする。」
メガネを必要としないカミュには縁のない知識なのでメガネ選びのノウハウはわからない。そういった知識は学問とはやや異なり、得手ではないのだ。
「彼は視力を測るのは初めてなので、よろしくお願いします。言葉は私が通訳します。」
「わかりました。お任せください。では、こことここに額と顎をつけてまっすぐに前を見てください。」
ギリシャ語しかわからないデジェルのためにスタッフの言葉を正確に訳し始めたカミュには、デジェルがどんなものを見ているのかわからないのが残念だ。視力の計測機械には実に興味がある。
デジェルはどんなものを見ているのだろう?
私も自分の視力を知りたいと言ったら測ってもらえるだろうか?
やはりメガネを買わないと無理だろうか?
そんなカミュのささやかな葛藤をよそに、少し頬を染めたデジェルがスタッフに指示されたとおりに計測機に顔を寄せて視力を測ってもらい始めた。
「このレンズでいかがでしょう?」
「素晴らしい!とてもよく見える!」
スタッフが幾つものレンズを機械に嵌め変えているうちにデジェルにちょうどいい度のレンズが決まったようだ。
「ではちょっとこちらのメガネをおかけになって店内や外の景色をご覧になってください。」
「ああ……」
機械から顔を離して手渡されたメガネをかけたデジェルが外を見た。
「信じられない!こんなによく見える!人の顔も木の葉もこんなにはっきりとして……ああ、文字もよく見える!前のメガネはこんなには見えなくて………すごい…」
声が小さくなった。感動して声が詰まったのだとカミュにはわかる。スタッフから告げられた視力は、デジェルはなんとも思わなかったろうがカミュの予想より悪かった。視力のよいカミュには想像も出来ないことだが、これまでのデジェルは山も木も雲も、いやそれどころかカルディアの顔さえもよく見えていなかったのかもしれない。
「では、次はフレームをお選びください。どのフレームでも、それにあわせてレンズをお作りしますので。」
「え?フレーム?」
店内にたくさん並べられているのはフレームだけで、肝心のレンズは一人一人に合わせて作るのだということをカミュも知らず、おおいに感心したものだ。
よく見ると色も様々だし、女性用なのか、柄にきらきら光る宝石や七宝焼きの細工がしてあるお洒落なものもあり、二人を感心させた。これはと思ったものを次々とかけて鏡を覗くと、どれも目新しくてデジェルにはとても一つを選ぶことなどできはしない。
「どうしよう? どれか一つを選ぶ根拠がなくて決められないが。」
「私も助言のしようがない。」
ついにスタッフに相談して無難なものを幾つか選んでもらい、鏡に向かって何度もはずしてはかけ、はずしてはかけ、カミュの意見を聞きながらやっとデジェルはフレームを選んだ。
「よく似合っている。」
「そうかな?よくわからないが。」
恥ずかしそうなデジェルが頬を染めた。フレームが細いのでこれならあまり目立たないだろう。
メガネは一週間後に出来上がるというので、受け取り証をもらって店を出る。
「ありがとう。メガネを買うなんて考えもしなかった。日本人がたくさんメガネをかけているのに、自分にも必要だとは思いもしなかったし。」
「きっとカルディアのことが心配で、そっちに気持ちがいっていたのだろう。」
「そうだな、そうかもしれない。」
町を歩いている人のメガネが妙に気になる。昨日まではそんなことを思いもせずにいたのが不思議なくらいだ。
「これでずっと楽に本が読めるだろう。現代の活字は小さいから今までは読みにくかっただろうが、これからは辞書も楽々読めるに違いない。」
「そうだな、思い切り本が読めると思うとわくわくする。宝瓶宮にはまだ本がある?」
「とてもたくさん。私もかなり集めたが古い本もそのまま残っている。デジェルが読んだ本もあるかもしれない。」
「それは嬉しいな。欄外に書き込みをした覚えがあるが。」
「どれかで見かけたような気がする。あれは確か……ダーウィンの種の起源だ。」
「それは知らないな。種の起源って?」
「あれは……ああ、そうか!種の起源は19世紀半ばに出版されているからデジェルの本ではなかった。」
「それって私より100年あとの本だ。内容は?」
「チャールズ・ダーウィンはイギリスの自然科学者で、種の起源は生物の進化についての科学書だ。当時の社会にセンセーションを巻き起こした。」
「それは詳しく知りたいな。聖闘士といえども、人は神によって作られたというのには疑問がある。」
「では帰ったらさっそく。パソコンで検索すると様々なことがわかる。」
「あれにもきわめて興味がある。扱い方を教えてくれ。パソコンの起源も知りたいし。」
「理論はともかくとして使い方はすぐに教えられる。とても面白いものだ。」
種の起源の話をしながらカミュの心は弾む。教える喜び、語るに足る知己を得た幸せを思いアテナの恩寵に感謝した。
それはデジェルも同じことだ。学ぶ喜び、心許す友に巡り会った僥倖が心を満たす。
「カルディアは今日メガネを買って帰ると思っているだろうから、がっかりするかもしれない。」
「ミロと話が弾んでいたから気にしないかもしれぬ。今朝の露天風呂も長かったし。」
「やっぱり蠍座だから気が合うのかな。」
「同じ星座というのはよいものだ。」
「まったくだ。」
カミュが手を上げて走ってきたタクシーをつかまえた。
「車にもほんとに驚く。いろいろな分野が発展しているが乗り物も目覚しい発達を遂げているのには驚くばかりだ。それにどうしてドアが自動で開く?」
タクシーに乗り込みながらデジェルの頭は疑問でいっぱいだ。
「タクシーの自動ドアは日本人の発明らしい。世界的にも珍しいもので、あとは香港のタクシーくらいのものだろう。それより、宿に帰ったらはやぶさの話をしよう。」
「はやぶさとは?」
「往復7年かけて宇宙の星まで行って表面の砂を採取して還ってきた無人の乗り物だ。」
「まさかそんなこと!」
「ほんとうだ。日本人が世界で初めて達成した快挙だ。」
満足感がカミュを微笑ませた。はやぶさの帰還に日本中が沸き立ったあの日の感動が甦る。
「カミュの知識が羨ましい。どんどん教えてくれ。すぐに追いついてみせる。」
「ぜひ!」
学ぶ喜び、教える喜びは終わらない。
……え? 同じ心境にミロが達しているか、離れの会話を聞いてみたいですって??
「それで?そのあとどうするんだ?そのままじゃ、まずいだろ?」
「いや、それは……ええとだなぁ…」
悟る日はまだまだのようです。
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※ なにげなく書いていましたが、もしかしてこの種の起源は初版本なのでは?
最近見つかった初版本 → こちら