◇その22◇
妙に顔を赤らめたミロといやに嬉しそうなカルディアが玄関先でメガネ店から帰ってきたカミュとデジェルを出迎えた。もうじき昼食になるので、出迎えついでに娯楽室で話をしていて二人の乗ってきたタクシーに気がついたのだ。
「あれ?メガネは?」
「出来上がるのは一週間後だそうだ。私の目の具合に合わせて新しくレンズを作るので、すぐには入手できない。」
「ふ〜ん、楽しみにしてたんだが。で、よく見えそうか?」
「素晴らしくよく見える。あれならなんでも見えるだろう。」
にこにこしたデジェルはほんとうに嬉しそうで、今までいかに見えていなかったかわかるというものだ。
にぎやかに話をしているとフロントの電話が鳴り主人の辰巳が受話器を取った。
「はい……さようでございます。……少々お待ちください、荒木様でいらっしゃいますね、はい、……では本日と明日のご予約はキャンセルということで。………いいえ、またのご利用をお待ちしております。では失礼いたします。」
受話器を置いた辰巳にミロが近寄った。
「その予約のキャンセルだけど、うちでその部屋を借りたいんだけどいいかな?カルディアとデジェルをゆっくり泊めたいんだけど。」
「え?はい、大丈夫でございますが。」
「よかった!じゃあ、宜しく!夕食のあとで移動するようにするから。」
「はい、承りました。」
ミロは喜色満面である。これで今夜と明晩は余計な気を使わなくてすむというものだ。
「ミロ、二人を別に泊めるのか?」
「そうさ、これで二晩は大丈夫だ。明後日は明後日の風が吹く。」
この計画をカルディアとデジェルに話すとカルディアが顔を輝かせた。
「そいつは助かる!……ええと…助かるっていうか、ほら、ええと、この時代のりっぱな宿に二人で泊まるなんていうのは勉強になるからな、この時代により順応できるだろう、うん。ミロ、ありがとう!」
一人で納得してにこにこしているカルディアを見てデジェルがちょっと首をかしげた。昨夜のことは頭に残っているが、まさかカルディアがミロから様々な情報を仕入れたとは知らないので、そこまでの緊迫感はない。
「いや、それほどでも。ともかくこれでお互いにのんびりとできる。いや、それは、今まででも十分のんびりしてるけど、さらにのんびりと寛いで…」
ここでミロの意図を十二分に察知したカミュが猛然とメガネ選びのノウハウについて話し始め、その場はそれで終わった。
「この部屋だ。」
「ふ〜ん、ちょっと感じが違うな。」
「このくらいの宿になるとどの部屋も工夫を凝らしてあって客を楽しませるようになっている。同じ意匠の部屋はない。ふ〜ん、俺たちのところは浴槽がヒノキだけど、ここは伊豆石だからまた肌あたりが違うな。ちょっと入りに来ようかな。」
伊豆石とは伊豆あたりで採れる青みがかった石材で浴室で使われることが多い。カミュと一緒に行った旅行先でもたびたび目にしているのでミロもよく知っているが、この宿でも使われているとは思わなかった。磨いても艶が出るわけではないが、しっとりとした肌触りは温かみがあってなかなかいいものだ。濡れると青緑の色が増すのがさらにいい。
ミロが伊豆石に感心している間に、カミュは座敷でデジェルに電話の使い方を教え始めた。なにか困ったことがあったら自分たちの離れに電話するようにと丁寧に教えている。
「おい、ミロ、」
カルディアがそっちの方をチラッと見てから浴室のドアを閉めた。
「今夜は教えてもらったとおりにやってみるからな。たぶんうまくいくと思うが、不測の事態が起きてどうしようもなくなったらお前を呼ぶからそのつもりでいてくれ。」
「不測の事態って…?」
ミロの脳裏にあらゆる事態が浮かぶ。
曰く、思わぬことを仕掛けられたデジェルがパニックになり収拾がつかなくなる。
曰く、わかっているつもりで行動したら予想に反してうまくいかなくてミロを呼びつける
曰く、無理なのか大丈夫なのか、双方ともまったく判断がつかない
「そっ、そんなことを言われてもっ!自分で判断対処して欲しいっ!大丈夫だっ、男ならきっとできる!あの教え方でなにも問題ないはずだっ!」
真っ赤になったミロがそう言ったら、カルディアにあきれられた。
「なにを考えてる?俺の言うのは、万が一、心臓が苦しくなったら、ってことだ。俺が胸を押さえて苦しみ始めたらデジェルがそっちに電話するだろうから、例の救急車をよろしく頼む。………お前、なにを考えてた??あぁ?」
「え……なにをって…」
カルディアがにやりと笑う。
「そっちが考えるなら、俺も考えるぜ。いまごろミロはなにをしてるのか?カミュはどうなっているのか?もしかして今頃あの特別な…」
「待った〜〜っ!わかった! 救急車の手配はする。だから余計なことは想像してくれるなっ!俺はカミュにあんなことは…!」
「ほう………俺に教えておいて、自分ではしないのか?」
「そ…そんなことはそのときになってみないとわからんっ!予定を立ててするような性質のことじゃないし!」
「そうだよな。 臨機応変、融通無碍になさねばならん。なあに、聖戦よりも楽勝だ、心配することはない。ああ、今夜が楽しみだ!」
「カルディア、頼むから無理だけはしてくれるな。俺はお前を救急車に乗せたくない!」
命の心配はもちろんだが、そのときに慌てて駆けつけてパニックになっているだろうデジェルとカルディアの状況を見ることを考えるだけでも躊躇する。
だって、そのときは二人とも何も着てないんじゃないのか?
そんなところに踏み込みたくない!
むろん、俺だって焦って服を着るんだぜ、カミュもそうだが
やっぱりマイルドなやり方だけを伝授したほうがよかったんじゃないのか?
俺って、間違ってた? 親切が仇になったら、どうする?
カルディアってそのときになると夢中になって我を忘れるってタイプなのでは?
あらゆる事態を予想して蒼ざめているミロとは対照的にカルディアは余裕たっぷりだ。
「キャンセルがあってよかったな。これもみんなお前が気を利かせてくれたおかげだよ。持つべきものは現世の蠍座だ。実に頼りがいがある。宜しく頼むぜ、専門家!」
ばしっと背中を叩かれてミロはため息をついた。
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