◇その23◇
その日の夕食はちょっと妙だった。
デジェルとカミュがメガネのことをあれこれと話しているそばで、カルディアは機嫌よく喋りながら時折ミロに目線を送って笑いをこらえているのがよくわかる。ミロはといえば、最初から大吟醸をぐいっと飲んで、
「あまり飲みすぎるのはよくないな、うん。」
などと言いながらそれでも盃に手が伸びる。カルディアのほうをあまり見ないで、もっぱら石狩鍋の鍋奉行に徹しているようだ。
「俺もあんまり飲まないほうがいいかな、ミロ、どう思う?」
「え……ええと、それは、何事も中庸を以ってよしと為す、だな。」
「え?それはなんだ?」
「つまり、ほどほどがいいだろうと思う。」
たいしたことを言っているわけでもないのにミロが真っ赤になった。不審そうにちらりと見たカミュとも目を合わそうとしない。
「来週メガネができてきたら細かい字の本も読めるようになるだろう。そのときには、カミュ、宝瓶宮に連れて行ってもらえようか?久しぶりに図書室がどうなっているか見てみたいし、本も借りたいので。」
「もちろん、かまわない。喜んでお供しよう。どうせならアテネの書店に行って好きな本を買うのはどうだろう?私も買いたい本がある。」
聖闘士ではなくなったとはいえ小宇宙はまだ備わっているのでデジェルにもテレポートは可能だが、強大なエネルギーを要するこの技で、ここ北海道から遠いギリシャの聖域までという遠距離の飛躍は単独では無理だろう。試して、失敗しました、では済まないのだ。それに目的地を定めることは地図上の一点を指差すような簡単なものではない。カミュと一緒に何度も往復して距離感を体感してみて、それから単独行を敢行するというのが穏当なやり方だし、それとて243年の長きにわたって眠りについていた空白がどのように作用するかは誰にもわからない。
「あと1週間もたてばカルディアもここの暮らしに慣れるから、私が少しくらい留守にしても心配ないだろうと思う。ミロと一緒にいればなにも困ることはないと思うがどうだろう?」
「あ〜、もちろん平気だ。ミロとゆっくりしてるから大丈夫。俺たち、気が合うし。」
少し普通の顔色になりかけていたミロがまた真っ赤になって石狩鍋に野菜を入れた。
「私もカミュと気が合う。やはり同じ星座と言うのは親しみが持てるものだ。」
カミュが頷いた。ミロに対しては小出しにしていたアカデミックな話題を遠慮なく話し合える相手を見つけたのだから内心では嬉しくてたまらない。医学も物理も地理も歴史も話したいことは山積みだ。
「そのときはデジェルに宝瓶宮の実験装置も見て欲しいが、少し長居してもかまわぬか?」
盃を空にしたミロに大吟醸を注ぎながらカミュが問うた。
「ああ、もちろんだ、デジェルになんでも説明してやればいいよ。聖域も懐かしいだろうし。シオンと童虎もこっちの様子を聞きたがるだろう。」
カルディアの体調その他のことについては毎日メールで報告しているが、直接会って話すのはやはりいいものだ。
「俺も行ければいいんだが、この心臓がはたしてテレポートに耐えられるのかわからんからな。至近距離のテレポートを試してみようと思ってもデジェルにきつく止められてる。」
「それは当たり前だ。普通の運動でもはらはらするのに、たとえ30センチのテレポートであろうとも致命的なダメージとなるかも知れないんだぞ。医師は水泳やランニングの負荷については詳しかったが、テレポートのことを知るはずもない。私はカルディアで臨床試験はしたくない。」
「わかってるよ、軽い運動にとどめるから大丈夫だ。心配性だな。」
カルディアは簡単に言うが、ミロの心配はテレポートのことではないのだ。
問題は今夜なんだよ、はたしてあれが軽い運動か?
昨日の夜は襖を隔てて隣同士だったからあのくらいで済んだが、今夜は……
この宿の離れはそれぞれが完全に独立していて、視線もうまくさえぎるように設計されているし、むろん話し声も漏れることはない。自由気儘に寛げる。そんな場所でデジェルと二人きりで夜を過ごすカルディアがどこまで本気を出すのかミロには判断がつかない。
ああいうことはその場の成り行きだからな
自分がなんと思っても、相手のあることだし予測がつくはずもない
ともかく無事に終わってくれれば他にはなにも望まん!
「ミロ、ミロ……?」
「…え?なに?」
「そろそろ雑炊を頼んでもよいか?まだ飲むか?」
「あ、いや…もう酒は充分だ。」
カミュが手を上げて合図をすると美穂がやってきて、石狩鍋の残ったスープで雑炊を作り始めた。味噌と醤油を少し足し、ご飯をいれてぐつぐつ煮立ったところに溶き卵を回し入れて火を止める。程よいところで三つ葉を散らして出来上がりだ。ミロとカミュには馴染みの雑炊だが先代の二人には珍しい。
「面白いことをするんだな。」
「あ、卵がもう固まった。」
「土鍋の余熱でしばらくはぐつぐつと煮えてるんだよ。こうするとスープも残さず飲めるし、身体も温まる。熱いから気をつけて。」
なにげないミロの言葉にカルディアがすかさず反応した。
「夜は冷えるからな。今から身体を温めておくのは正解だよ。なっ、ミロ。」
一口目をすくってふうふう冷ましていたカルディアがミロにウィンクをした。こんなところで連帯感を表明しなくてもいいものを、今夜が楽しみでならないカルディアは盛んにミロにエールを送る。
「ええと、まあそうだな、うん。このあたりは真冬にはだいぶ気温が下がる。ええと、どのくらいになるんだっけ?」
なんとかして話の方向を変えたいミロがカミュに聞いた。
「登別は北海道でも暖かい土地で、一月の平均気温はマイナス4〜5℃というところだ。マイナス10度以下になることはめったにない。」
「マイナス?」
デジェルが不思議そうな顔をした。そういえば気温という概念も未知のものかもしれなかった。
「あれ?そういえば、そのころって温度計ってあったのか?」
そのころとは、カルディアとデジェルが生きていた243年前より以前のことだ。そういうことはむろんカミュの独壇場だ。話題を変えるには絶好だろう。
「いや、ドイツのファーレンハイトが日本では華氏と呼ばれる温度の目盛りを考案したのが1724年、スウェーデンのセルシウスが同じく摂氏と呼ばれる独自の温度目盛りを考案したのが1742年で、そのどちらも温度計を一般に普及させるにはまだ時期尚早だっただろう。その当時の聖域に温度計があるはずはない。」
「すると、今日はすごく暑い、とか、今朝はかなり冷える、くらいの表現しかなかったわけか。ふ〜〜ん、そいつは不便だな。で、なんで日本じゃ、華氏と摂氏なんだ?温度の測定の単位としては妙だろう。」
ミロがかねてからの疑問を口にした。いくら英語が苦手なミロでも、日本に住んでいればアメリカでは華氏というものが温度の単位らしいことは把握できている。
「日本に温度の目盛りが伝えられたとき、ファーレンハイトは中国語で華倫海特と表記されていたので略して華氏、セルシウスは摂爾修斯と表記されていたので摂氏になったということだ。幕末か明治初期に伝えられた概念なのだろうと思う。華氏とはファーレンハイトの温度目盛り、摂氏とはセレシウスの温度目盛りという意味だ。」
「すると勢いで名前のほかに氏までついちゃったのか?そいつは愉快すぎるな。そんなこと言ってたらブラウン氏運動とかレントゲン氏写真になるぜ。」
こんな話は先代の二人にはさっぱりだ。ぴんと来ない顔をしているのでミロがいい例を引き合いに出した。
「つまり冷たさや熱さの度合いを正確に測るといろいろと便利なんだよ。たとえば、水が凍る温度は0度で沸騰するのは100度、そして、物質がこれ以上は冷えない温度はマイナス273.15度だ。これを絶対零度って言う。カミュなんかオーロラエクスキューションをやるから得意だぜ。デジェルもできるんじゃないのか?」
「えっ?!体感としては理解しているが、あれを数値で表現できるのか?」
さすがにデジェルが身を乗り出した。究極まで高めた小宇宙で作り出す最高難度の技を数値で測れるとは思いもよらなかったのだ。
「絶対零度は摂氏ではマイナス273.15度。華氏だとマイナス459.67度になる。アメリカとジャマイカではいまだに華氏が使われているが、そのほかの国では摂氏を採用している。」
「日本では絶対零度がマイナス273.15度だって言うのは有名らしいぜ。たいていの日本人は知ってるんじゃないのか?」
おのれのことのようにミロが自慢する。だが、これはカミュには初耳だった。
「え?そうなのか?なぜこんな専門的なことを知っているのだろう?」
「さあ?日本人の知的能力の高さの表れなんじゃないのか?美穂だって知ってるかも。」
ちょうどそのとき美穂がお茶とフルーツを持って来た。
「ちょっと聞くけど、絶対零度って知ってる?」
「はい、存じてますわ。マイナス273.15度です。」
よどみなく答えた美穂は軽くお辞儀をすると下がっていった。
「ほぉ〜〜!」
わが意を得たりとばかりにミロが通訳するとカルディアとデジェルが嘆声を上げた。日本人の教育程度の高さはまさに驚嘆に値する。
「私はもっと勉強しなければならない!知らないことが多過ぎる!カミュ、宜しく頼む!」
「いつでも!」
水瓶座の二人のすぐにでも本を広げそうな勢いにカルディアは苦笑する。
「ともかく今日は絶対零度ってやつを覚えたんだからいいじゃないか。勉強は昼にしてくれ。夜の勉強は俺が…」
「うわっ、この夕張メロン、すっごく美味しくないか!美味この上ないな!昔はメロンなんてなかったろ?足りなかったらお代わりをもらうから遠慮しないでくれ!」
ミロの慌てぶりが可笑しくてカルディアがくすくすと笑う。
「ふうん……デザートのお代わりねぇ……そいつは悪くないな。気に入ったらお代わりか、うん、なるほど!俺もお前もいくらでもいけそうだな。基礎体力があるし。」
ますますミロが赤くなる。しかしデジェルはそんなことは気にも留めない。
「ほんとに美味しい!メロンの原産地は?」
「北アフリカから中東あたりだと思う。詳しいことは部屋で帰ったら地図で説明しよう。」
「だから勉強は明日に。」
カルディアがダメ押しをしてメロンをぱくっと食べた。
⇒
摂氏・華氏の話 → こちら