◇その25◇

一週間後、メガネが出来上がってきたという連絡が店からあった。今度はカルディアとミロも同行したのは、メガネ選びのあれこれを話すデジェルに誘われたためだ。
「ともかく面白い。とてもたくさんのメガネのフレームが並んでいるし、視力を計測する機械も驚きだ。この先もしもメガネが必要になったときのためにも知っておいたほうがいい。」
「俺はメガネをかける気はないが。」
「では、そのときにはコンタクトをすると?」
「それはイヤだ!」
そこで四人は揃って駅前に出かけることになった。

商店街の入り口で車を降りてしばらく歩く。
「ふうん、ずいぶんいろいろな店があるんだな。料理屋とか洋服屋はわかるが、なんの店だかわからないのも多い。」
カルディアが言うのは宝くじ売り場だ。CDなどを売る店舗も意味がわからないし、金融商品を扱う銀行に至っては物を売るという概念からあまりにも外れていてとても店とは思えない。
「この店は?……え?歯医者?歯医者とはなんだ?」
商店街を歩いているとミロとカミュにはごく当たり前のことでも先代の二人には疑問に思うことが多くある。そのたびに説明するのだが、すべての話を覚えきれるわけではないし、本質的なことがどこまで理解できているものか?
「歯が悪くなると大変だから食後の歯磨きは欠かせないし、俺もカミュも3ヶ月に一回は定期健診に行ってる。歯石を取ってもらって虫歯がないか確認してもらうんだよ。」
「歯石とは?」
ここでカミュが歯石の説明をする。歯周病も関係してくるのでやや専門的で、ミロなら携帯で検索するところだ。
「歯医者には一度行ってみたほうがいいな。以前はどうしてたんだ?」
「歯医者なんて気の効いたものはなかったからな。黄金で虫歯のやつなんかいなかったと思うが、下っ端はどうだったろう?歯が痛くても我慢してたのか?デジェル、お前、なにか知ってるか?」
「いや、なにも。ただ、歯を大事にしないと困るのは自分なので、楊枝を使ったり布で磨いたりはしていた。」
「ふ〜ん、歯ブラシはまだなかったんだ。そいつは不便だな。」
「歯ブラシは実に素晴らしい!人類の大発明だ!」
「練り歯磨きっていうのも面白いな。いろんな味のがあるのには呆れたが。」
歯磨きの気持ちよさを覚えた二人は歯ブラシを賞賛する。

この世に蘇生して少し落ち着いたところでカルディアとデジェルの世話をしていた童虎が歯ブラシのことを思いついて持ってきたときは変な顔をされたものだった。
「歯ブラシ?…え? これが?」
「そういえば、あのころはなかったのぅ。いつごろから使い始めたんじゃったか、よく覚えとらんなぁ。まあ、ともかく使ってみよ。そら、これが練り歯磨きだ。薄荷 (ハッカ) の味がする。」
「え?」
「虫歯の予防じゃよ。若いように見えても、わしももう261歳じゃからな、歯の健康には人一倍気をつけておる。万が一、入れ歯なんかにしたら百龍覇は撃てん。奥歯に力が入らんのではどんな技も役立たずじゃ。冥界の様子を見張っておるときも歯には気を使っておったものじゃぞ。もちろん、インプラントなど入れておらん。8020運動というのがあるが、わしは26120運動を実践しておる。」
童虎の説明はいまひとつ系統性に欠けている。デジェルのほうからどんどん質問をして歯ブラシの効能や用法について学習したというのが実態だ。
デジェルが最初に味わったのは世間によくあるペパーミント味の練り歯磨きだったが、その後日本にやってきたときには葉緑素入りや塩入りが出現した。
「なぜこんなに色々なものが?食べ物でもあるまいに。」
「子供向けにはイチゴ味とかメロン味があるぜ。それどころか思いつく限りのありとあらゆる味の練り歯磨きが存在する。」
そう言ってミロがパソコンを開いて見せたのがこのページだ。
「…え?」
「なぜ32種類も必要なんだ?それに、はちみつの味なんか使ったら口の中が甘くなって、磨いた意味がないだろうが。」
「いや、はちみつ自体じゃないらしい。フレーバーっていうのは味とか香りとか、ええと、なんて言えばいいんだ?」
振り返ったミロがカミュに助けを求める。
「いわゆる風味のことだ。食べ物の味はそれ単独ではなく香りと一緒になって初めて美味しいと知覚される。香りがないと美味しさは半減するそうだ。」
「ふうん、そんなもんかな?」
「ワインには香りは重要だが、練り歯磨きにそんなにたくさんの香りが要るとは思えないが。」
「32っていう数はたぶん、一ヶ月の間、毎日違う味を使える、っていう意味じゃないのか?贅沢といえば贅沢だ。サーティーワンのアイスクリームと同じ発想だな。」
「サーティーワンとは?」
「それに、このリストの最初に出ている舌磨きって?なぜ舌を磨く?痛いだろう。」
あれこれと意見を述べ合っている中でカルディアは考えた。

   デジェルを抱くときに、もしもなにも匂いがわからなかったら?
   抱くときにも五感が大切だろう
   触覚、視覚、嗅覚、聴覚、味覚、 ふふふ……どれ一つ欠けても問題だ
   湯上りの温泉の匂いもオツだし、うん、匂いは重要だな
   人間にだって、髪の匂いとか肌の匂いとかあるからな
   まだ夏には抱いたことがないが、汗の匂いも案外悪くないんじゃないのか?
   ふうん……汗か…汗ね……なんとなくワイルドだな
   どんなものか、こんどミロに聞いてみるかな

経験を積み始めたカルディアは学習意欲旺盛である。
「面白いじゃないか、人間の生活には匂いが必要不可欠だ。俺は賛成するね。なっ、ミロ、お前もそう思うだろう?」
これはカルディアがあの方面を暗示するのによく使う言い方で、むろんミロにはピンと来る。
「ええと……そうだな、うん、俺もそう思う。」

   ああ……これで、あとで匂い談義になるのは確実だ
   カミュの匂いって……そりゃまあ、髪の匂いとか肌の匂いとか…

「やっぱり蠍座は話がわかるな〜、以心伝心ってやつだ。」
歯磨きから煩悩を導き出すところなどは、カルディアも隅には置けない。この手の話題には天然に近い反応しか返ってこないカミュとはまるで違っていてミロをドキドキさせる。これまでの生活にはなかった要素で刺激的である。

メガネ店の何軒か手前にドラッグストアがある。そのときの会話を思い出したミロが、
「そういえば、シャンプーやリンスにもいろいろの香りがあるな。」
と言うと、たちまちカルディアが興味を示した。
「ふ〜ん、俺たちの髪は長いし、そいつはいい情報だな。この時代に来て、シャンプーとリンスのありがたさがしみじみとわかったからな。おい、ここに入ってみよう。」
「えっ、私は早くメガネをかけてみたい。」
一秒でも早くメガネが欲しい一心のデジェルはドラッグストアには用はない。
「ああ、そうか。じゃあ、メガネをかけていちばん最初に入る店はここにしよう。記念にお前の好きな香りのシャンプーとリンスを買えばいい。」
「なぜシャンプーとリンスを買うのだ?」
この時代に慣れていないデジェルには、ヘアケア用品を買えと言われたからといって女扱いされたという感覚はないが、傍目には妙な図式ではある。
「俺が決めたから。それで十分だろ。」
カルディア、天晴れである。ミロにはとてもできない技だ。


                         

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