◇その27◇

「おい、ミロ、」
「え?」
「いくら聖闘士じゃなくなったからって、デジェルが生き返ってから手に入れる初めてのクロスがこれっていうのはないだろう?そうは思わないか?」
「ええと、それはそうだが。」
クロスと聖衣、たしかに音が同じで連想するのは無理もない。
「こんど聖域に帰ったらアテナに交渉して、俺たちが聖衣を身につけてもいいかどうか聞いてくれ。」
「えっ!」
これにはカミュもデジェルも耳をそばだてた。
「といって、べつに闘うわけじゃない。それは現役の聖闘士であるお前たちの役目だからな。」
「もちろんだ。俺たちはそのためにいる。」
「こう言ってはなんだが、自分の意思ではないのにこの世に甦った俺たちには何かをするという目的がない。地上の平和に貢献したくてももはや聖闘士ではないし、なんらかの職業に就こうとしてもあまりにも知識がなさすぎてそこまでの適応は難しい。もの心ついたときから聖闘士として生きてきた俺たちにとって、ほかの生きる目的を見つけるのは困難だ。いくら俺でも、」
声を潜めたカルディアがミロにだけ聞こえるように耳打ちをする。
「デジェルを愛するだけが人生の目標っていうのもまずかろう。」
頬に血を昇らせたミロが小さく頷いた。たしかにそれは極端すぎる。
「そこでだ、俺たちもときには聖衣を身につけて、かつての生命の輝きを体感し、生きる喜びを再認識したい。」
「う〜ん…」
「考えてみれば、この地上は俺たちが命懸けで闘って守ったものだ。シオンと童虎が生き残ってくれたおかげでなんとかその事実が伝わったが、もしあいつらが相討ちで死んでいたら、たとえ地上が無事でもその間の事情はなにもわからないままで終っただろうし、聖域の存続すら危うかったろう。聖域が無人の廃墟と化していたら、この時代にアテナが降臨しても、出迎える聖闘士の一人もおらず、行き先さえなかったことになる。」
「それは……」
考えるだに恐ろしい未来予想図だ。いや、現にシオンと童虎のおかげで聖域は存続しているが、その可能性もあったことを思うと背筋が寒くなる。
「身勝手なのはよくわかっている。わかっているが、それでもなお、俺は聖衣を身につけてみたい。かつての記憶に触れ、その瞬間を生きる喜びとしてみたい。何一つ自分のものを持たず、身体さえもアテナの恩寵で新たに甦った俺たちにとって、かつて身に纏っていた聖衣だけが過去と現在をつなぐ証しだ。もしも聖衣が俺たちを拒否したらそのときは潔く諦めるが、もし、かつての持ち主の小宇宙を覚えていてくれたとしたら……」
カルディアが言葉を切った。握り締めたこぶしが真摯な想いと憧れを如実に物語る。それはデジェルも同じことで、噛み締めた唇が色を失った。

   私とて聖衣を……もう一度だけでも聖衣を身につけられたら……
   いや、触れるだけでもよい
   せめて……せめて、あの輝きをもう一度見ることができたなら……

そんなことを望むのは僭越だ。越権行為だとわかっているから、デジェルはこれまで一言も言いはしなかった。今のアクエリアスの聖衣が認めているのはここにいるカミュだということはわかりきっており、カルディアとともに再びの生を得たことだけでも僥倖に値する。勝手に甦った者が口を出すのは許されることではない。

   それでも………ああ、それでも……

身に馴染んだ聖衣の重み。凛として正義を主張する黄金の煌めき。聖衣に呼応して鮮やかに体内を掛けめぐる最強の小宇宙。究極の凍気を放つ至高の一瞬。
そのすべてがいとおしく、しかし手の届かないものになっていた。心ならずも死によって手放した かつては我が物であった聖衣の感触は一度たりとも忘れてはいない。
「私は……」
物狂おしいほどの懐かしさに頬が紅潮しメガネの奥で涙が滲む。
そのとき、聞きなれない言葉で深刻な話が始まったのを察した店員が声をかけるタイミングをつかみかねて困ったあげく咳払いをした。緊張がほぐれ、はっと我に返ったカミュがカードを取り出した。
「カルディア……こっちへ…」
デジェルがカルディアを横に引っ張っていった。ミロはカミュと一緒にいて、なにか話をしているようだ。こちらをちらっと見たが動く気配はない。
「すまん。頭ではわかっているつもりだったが、やっぱりだめだな。まさかお前のメガネからこうなるとは思わなかった。」
「とても驚いた。」
デジェルが声をひそめる。
「ミロたちはどう思っただろう?」
「うん、急に言って悪かった。あとで落ち着いたところでもっとよく話してみよう。きっとわかってくれるさ。聖衣を奪うわけじゃない。生きる目じるしにしたいだけだ。」
「そう……そうだな………あ、ミロたちが来た…」
ミロが先に立ち、メガネケースと保証書の入った袋はカミュが提げている。
「さあ、行こうぜ、デジェルによく見える目で街を見てもらわなきゃな。」
「それからシャンプーとリンスも買わねばならぬ。ボディシャンプーも買ったほうがよければそうしよう。」
二人の明るい口調に救われる。やや重苦しくなった雰囲気をミロとカミュが和らげようとしているのが感じられて、カルディアとデジェルはほっと胸を撫で下ろす。
「シャンプーって、どんな香りがあるんだ?」
「ええと、よくあるのは花の香りので、バラとかジャスミンとかラベンダーとか、いろいろだ。それから柑橘系、ハーブ系。香り以外にアロエとかミルクとかの原材料を工夫したものもあるし。珍しいところでは炭とか海藻とか米ぬかなんかもあるな。」
「え?米ぬかってなんだ?」
「収穫した米を精米するんだよ。精米っていうのは…」
仲良く話し始めた蠍座の後ろからカミュとデジェルがついてゆく。
「あの、カミュ……さっきの話だが…」
「大丈夫だ、なにも心配することはない。」
「え…」
「私もミロも、よくわかっているから。」
短い言葉に思いやりが込められているのがよくわかる。
「ん……ありがとう。」
メガネ越しに見る街が滲んでいった。