◇その28◇

むろん宿の風呂場にもシャンプー、リンス、ボディーシャンプーは常備されている。それも老舗デパートの一階でしか扱っていないような高級ブランドだ。
最初のころはミロとカミュもそれを使っていたのだが、日が経つにつれミロが自分たち専用の品を買いたいと言い出した。
「なぜそんなことをする必要がある?ここにある品で十分だと思うが。」
「だって、そんなことしたら他の泊り客とお前の髪の匂いが同じになるじゃないか。夢も希望もないね。ここの泊り客といえば、ご年配と熟年夫婦と有閑夫人と温泉好きの若い女性と、ともかく日本の一般庶民だぜ。至高の黄金聖闘士がそれはなかろう。」
「ここに限らず、日本のどこの宿でもそうだと思うが。」
「じゃあ、お前にも事情が飲み込めるように具体例を出させてもらおう。お前もよく知ってる囲碁の桑原本因坊、あの老人がもう一度ここに泊まりに来たときに、お前を抱いた俺が綺麗な髪に顔を埋めてかぐわしい香りに酔いしれようとしたとき、(ああ、隣の離れに泊まっている桑原本因坊もこの香りと同じなんだな……) なんて俺に思わせていいわけ?さあ、これから…というときに俺の脳裏に……」
「わかった。」
むろんカミュとて、そんなことを望みはしない。いくら声質が似ていようとも、その域に達するには早すぎる。  
(注・1
そこでミロは十分に吟味してシャンプーとリンスを購入し、カミュの髪を好みの香りに変えることを得た。

来日してすぐにはそのことに気がつかなかったカルディアも、何日か経つうちにミロの目論見を察したらしい。
「ということは、俺たちはそいつを使わせてもらうことは遠慮したほうがいいってわけだ。お互いに連想するのはまずいからな。それとも連想させたいか?」
「え……いや、あの、」
カルディアがミロを赤面させるのはすでに趣味の領域に入っている。
そのまま宿の備え付けの品を使って243年前には有り得なかった豊かな泡立ちと快い香りに満足していたカルディアも、街に出て実際にドラッグストアに並んでいる数え切れないほどのボトルを見ると独自性を求めたくなるのは当然だろう。アジアンビューティーとか100%植物由来とか海洋深層水とかの説明をミロから聞いてワクワクしたのはつい昨日のことだ。

こうして新規に買ったシャンプーとリンスの評判は上々だ。デジェルはなにも言わなかったが、翌朝の朝食の帰りにカルディアがミロを娯楽室に連れ込んで感に堪えないようにこう言った。
「おい、なんとも言えないな、あれは!抱いたときに髪に顔を埋めるだろ、すると爽やかな甘い花の香りがそこはかとなく漂ってきて俺の鼻孔をくすぐるんだぜ。もうたまらんな!そのままずっといつまでも嗅いでいたいが、そういうわけにもいかないのはお前にもわかるだろ………ふふふ、ああ、ホントにこの時代は素晴らしい!あのころなんて髪を洗うためのシャンプーなんてなかったからな。泥で洗ったり海藻を煮た液で洗ったり単に水で洗ったりしてたんだぜ。石鹸を使ってみてもごわごわするし。あのころは当たり前だと思ってたからなんの不満もなかったが、ああ、お前にはとてもわからんだろうな。お前らってほんとにいい時代に生きてるんだぜ。」
デジェルをこんな風に抱いて、あんな反応があって、といういつもののろけにも近い話を延々と聞かされるかと思ってはらはらしていたミロの予想は幸いにも裏切られ、カルディアは現代のヘアケア用品の賛辞にいとまがない。
「気に入ってくれてよかった。いまの黄金には髪の長い者が多いからな。シャンプーもそうだが、リンスも必需品なんだよ。暑い日はうっとうしいと思うときもあるが、いまさら短く切る気はないし。」
「俺たちのときも長いやつは多かったぜ。なぜだろうな?」
「そのことなら前にカミュが言ってたが、旧約聖書に出てくるサムソンの力の源泉が長い髪だったという話があって、その考えから来た可能性もあるそうだ。まあ、真偽のほどはわからんが。髪には霊力が宿るとかの考えもあるし。」
「すると、髪が短いやつは自信家か?髪の力に頼らないとか。」
「さあ?どうだろう?俺はもうずっと伸ばしてるからそんなことは考えたことがないが、たとえ短くしてもアンタレスの威力が落ちるとは思わない。」
「当然だな。スコーピオンの実力が髪の長さで左右されるようでは情けなさ過ぎるぜ。それよりも髪の効用は…」
カルディアがにやりと笑う。この笑い方にはミロをドキッとさせるものがある。
「抱いてるときに俺の髪が肩から落ちてデジェルの胸をくすぐるだろ……ふふふ、それがいいんだよ。わざとやってるわけじゃないんだが、感じるらしいんだな、これが。お前のところもそうじゃないのか?そうだと言え。あ?カミュはどうなんだ?」
「ええと…」

   ああ、やっぱり……こうならないはずはないよな…
   俺たちの場合はカミュの髪が上から落ちてきてぞくっとすることもあるんだが、
   それには触れないほうがいいだろうな

「うん、それはまあ……かなり効果的だと思う。短い髪だったら有り得ないからな。」
「そうだろう、そうだろう。うんうん、やっぱり蠍と水瓶だからな、いろいろと共通するものがあるな。俺たちのやり方が普遍的で安心したよ。なにしろ他のやつらがどんな抱き方をしてるかさっぱりわからなくて、そのあたりをデジェルが気にする感じがあって、ちょっと困ってた。」
「え…そうなのか?」
「ああ。俺は自分から始めたことだから覚悟ができてるし、お前からいろいろ聞いて学習したからそんなに悩んではいないんだが、デジェルはそうじゃないからな。これでいいのかどうか、どうしてもその心配を払拭しきれてないようだ。まあ、そのうちに慣れて平気になるだろう。幸い俺の心臓もいい調子だし。大丈夫だ、おかげでうまくいっている。」
「それならいいが。」
話がまとまったところで離れに戻るとデジェルがパソコンの前に座り、カミュから操作を教わっているところだ。ギリシャ語バージョンを入れてあるので理解が早い。
「うまくいってるのか?」
「ああ、とても面白い。カルディアもやるか?」
「いや、俺はこれからミロと一緒に例の温泉パスポートを使ってみようと思う。ほかのホテルの風呂がどうなっているのか知りたいし。」
「それもよいな。では、あとで様子を知らせてくれ。」
「ああ、わかった。それじゃ、行ってくる。」
「身体に負担のかからぬように気をつけて。」
「もちろんだ。」
ミロとカルディアが浴衣とタオルを持って出かけていった。


                         


注・1  「ヒカルの碁」 の桑原本因坊とカミュの声優は、どちらも納谷六郎氏です