◇その29◇

そのあとしばらくパソコンを見ていたデジェルだが、だんだん口数が少なくなってきた。時々そっとため息をつき、小さく首を振って気を取り直したようにパソコンに向かう。でもすぐに手が止まる。
「あの…カミュ…」
「なにか気になることでも?」
「いや……なんでもない。」
それから10分ほどエクセルに取り組んでいたデジェルがマウスから手を離した。
「あの……聞きたい事があるのだが…」
声がかすれて上ずっている。キーボードを見詰めたままのデジェルの顔が真っ赤で、どう見ても普通ではない。
「なんでも聞いてくれ。私にわかることなら答えよう。」
「ん……あの、こんなことを聞かれてさぞかしいやだろうと思うのだが、あの……」
声が小さくなって、うつむく様子はただ事ではない。カミュの胸にまさかの思いがよぎる。
「カミュにしか聞けないので………あの…カルディアとのことなのだが、あれでいいのだろうかと思って…」
カミュの耳が熱くなる。やはり予感が当たったようだ。
「それはつまり……」
さすがに言葉を選んでしまう。選ぶというよりは探しあぐねてたじろぐというほうが当たっているかもしれない。
「私と…ミロとの関係と同じようなことだと考えてよいだろうか?」
「ん………そういうことだ。そのことについて聞きたい。」
メガネをはずしたデジェルが訥々と話し始めた。
「私はいままでにそういうことを知らなかったから、あの、どうしてよいかまったくわからなかったし、でも、カルディアは…あの……先へ先へとことを進めて……で、あのう……そうなったのだけれど、いまだにそれが正しいのかどうかよくわからない。」
「そう…だろうな。」
これだけでは、デジェルがいったい何を指しているのかカミュには判然としない。同性との恋愛関係全般のことを言っているようにも聞こえるし、もっと具体的な行為のことを言っているようにも思われる。

   もう少し先を聞いてみよう  こういうことに間違いがあってはならない

カミュの無言が先を促し、膝に置いたデジェルのこぶしが握られる。
「私は…男性同士でそういうことが有り得るとは知らなかったし……あの、つまり…キスとか抱擁は理解できるけれど、その先のことは…いまだに、あの……信じられない。あんなことがあっていいのだろうか?おかしいのではないだろうか?自分たちだけが違っているのではないだろうかと思うと不安でならない。だって……だって摂理に反している…そう思う。」
デジェルの頬が緊張で引きつっている。身体がこわばって声が震えているのがよくわかる。むろん聞いているカミュのほうも肩に力が入って自分の身体ではないような気がしていた。
「カルディアは大丈夫だというけれど、私と同じでそんなに世間を知っているはずはないし、それにあの………お、おかしいと思う………私は……あのようなこと…」
ここまで聞けば、おそらく具体的な行為のことを言っているのだとカミュにも見当がつく。誰にも言うはずのなかった極めてプライベートな事柄に言及せねばならぬという事態に直面しているのは明白で、できることならこの場から逃げ出したいのは山々だが、悩みに悩んだデジェルがついに思い余って相談を持ちかけた気持ちもよくわかる。この時代にカミュのほかにいったい誰に聞けというのだ?

   たぶんカルディアは急すぎたのかもしれない
   ミロは十分すぎるほど時間を掛けてくれたがカルディアはそんなに待てなくて…
   私もなにも知らなかったけれど、考える時間は十分にあり、
   やがて心の中にミロを受け入れる気持ちが熟成されていったのだった

おそらく、ミロが夜中に電話で呼ばれたあの晩にそういうことがあったのだろうとカミュは思う。とすると、ここにやってきてたった二日目の晩ということになる。
最初の晩は襖を隔ててた向こう側に人がいるのを承知でデジェルを抱いたカルディアは、そんな軽いふれあいでは物足りなかったのだろう。翌朝、都合のいいことに宿の予約にキャンセルが出て、やはり隣のただならぬ気配に困っていたミロが気を利かせてもう一つの離れを借りた。そこでカルディアは思うさま振る舞ったというわけだ。
それなりにデジェルに気を使ったのだろうとは思うが、ミロほど繊細であったかどうかはわからない。おのれの心臓を気にかけつつ、いつ死ぬかもわからない不安に駆り立てられて初めてのことに夢中になったに違いない。明日がないかもしれないカルディアには待つ余裕はなかっただろう。

   二日目か……

カミュの考えでは早すぎるが、世間ではそういうこともあるかも知れない。いや、こういうことに標準を求めるのが間違いなのだろう。双方の性格と状況によって、どんなことでも起こり得る。何日目だろうと、それがそのときの必然だ。
「おかしいように思えるだろうけれど………そうだな……どうやらそういうものらしい。私も何も知らなかったので最初はひどく驚いたけれど、もう……慣れたので。」
デジェルがびくりとした。
「あの……ほんとにすまない………こんなことを聞いてしまって…」
「いや………この時代の色々なことを説明するのと同じだから……医学とか天文学とか社会システムとかのことを話すのと同じだと思うし。」
そうだ、そう思わなければとてもやっていけるものではない。いたたまれなくて顔から火が出そうである。それでもカミュは声を励ました。逃げることはできなかった。
「不安が残ってはいけないし、本質に触れたくないあまりに、互いに曖昧な話をして勘違いをしてもならないと思う。極めて微妙な話ではあるけれど、心配なことや疑問点を正確に言ってもらえれば私も自分の知る限りのことは答えられるが、それでいいだろうか?」
「ん……すまない。ほんとうに迷惑を掛けるが、そうしてもらえればありがたい。」
お互いとても顔が見られない。パソコンの画面を見たりキーボードを見たり、あるいは自分の手を見たりして話が進む。方向性が定まったのでデジェルも腹が据わったらしい。途切れ途切れではあるが、おのれの気持ちをカミュに打ち明けて納得のいくまで意見を聞いた。
「私も他のケースの具体的事例は知らないけれど、その……ミロもカルディアもたぶんそれなりに普通のことをしているのだと思う。たぶんだけれど。」
「……あれが普通?」
「そうらしい………………ミロの言うところによると、もっと、その………変わった方法を採るケースもあるらしくて。それに比べるとおそらく普通………だと思う。ミロもそちらも。」

   おそらくミロもカルディアに聞かれてレクチャーしたのだろう
   だから、あの夜に電話がかかってきたのだ
   ミロは理由を聞かれたくなさそうだったし、私も聞きたくなかったし……
   ミロはどこまで話したのだろう?

カミュとしては努めて平静に話しているつもりなのだが、それにしては今までにないほど頬が熱い。昨夜のミロの振る舞いが心に浮かび、いても立ってもいられなくなる。
「むろん、ミロの立場では普通でも、私としてはいつまでたっても自分が普通のことをしているとは思えない。同じ性を有しているのに、なぜ私だけがこうなのだろうと思う。」
「それは私もそう思う。なぜ私がこうなのかと思わずにはいられない。それは、カルディアを好きなのとはまた違う話で……私は男なのにあんなことをされて………それでいいのか?って思うと、どうすればいいのかわからなくなるし………それに、人間は男と女が結婚して子を産むものだし……でも私たちはそうではないから………あの…間違ったことをしているのではないかと思って……」
デジェルの声が震えて動揺しているのが手に取るようにわかる。
「カルディアにはこんなことは言えない。言えばカルディアはきっと困るだろう。心臓がいつどうなるかわからないから………あの、いつ死ぬかわからないから………そのこともあってあんなに積極的なのはよくわかる。思うようにさせてやりたいし、こんなことでカルディアの貴重な時間を使いたくない。私がこんなことを考えていると知ったらカルディアはがっかりするかもしれないし、それにあの………私もカルディアを好きだから………いいのだけれど、でも……この在り方でいいのかわからない……」
強い意志を以って行動を起こしたカルディアには迷いはないのだろうが、いきなりの嵐に巻き込まれたも同然のデジェルには越えなければならない障壁が多かった。そのときは無我夢中で過ごしても、嵐が過ぎ去り風が凪いでくると様々な想いが胸の中でせめぎ合う。
困惑と動揺の只中にいるデジェルを見ているとカミュも身につまされる。

   もしもミロにこんな不安を訴えていたとしたら、どうなっていただろう?
   きっとミロは私を抱きしめて、言葉を尽くして慰めてくれたに違いない
   ” 大丈夫だ、心配するな。いつでもお前のことを考えているから安心して ”
   ” 愛し合っているからこれでいいんだよ、なにも間違ったことはしていない ”
   そして私は、そんなことを言ってミロを困らせたことを恥ずかしく思うのだろう

最初の頃こそカミュも同じような悩みと向き合って葛藤したものだが、今はもうそんなことがあろう筈もなく、夜毎夜毎にミロにやさしく抱かれて時間を過ごし、やがて心身ともに満ち足りて温かい腕の中で眠るのが常だ。なにもかも分かち合っている二人の間にはいささかの齟齬もない。
しかしデジェルにその手は使えない。カミュは言葉でデジェルを納得させねばならなかった。