◇その31◇
「あの……カミュたちのことは誰にも知られていないのか?聖域…で。」
「それは………」
眉をひそめたカミュがそっとため息をつく。
「たぶん老師……童虎はご存知でいられる。こちらにおいでになった折にそのようなことをおっしゃったことがあって………あれにはほんとに参った。」
「そうか、童虎が……するともしかして、そっちのほうのレクチャーの可能性も含めて私たちをここに滞在させたのだろうか?」
「えっ!まさか!」
デジェルのこの発言はカミュを驚かせた。童虎の慧眼には一目も二目も置いているが、もしもそこまで見抜かれているのであれば、ミロの言い草ではないがほんとうに頭が上がらない。
「手術を受けた病院で今後しばらくは検診を受ける必要があるから、私たちが日本に滞在するのは自然な流れだが、いざカルディアとああいう関係になってみると、、同じ立場のミロとカミュが一緒にいてくれて心強いのは事実だ。なにか不測の事態が起こったときにもすぐに対処できるし…」
デジェルの声が急に小さくなった。不測の事態がカルディアの心臓関係のこととは限らない。あの親密すぎる状況で予想も付かないことに直面したら、経験値の少なすぎるデジェルとカルディアがパニックになる可能性もある。
つい同じことを考えてしまい、脳裏に浮かんだあらぬ光景から必死に目をそらしたカミュが急いで言葉を継いだ。
「では、病院にいるときに童虎にそのような気配を悟られたという可能性があるとでも?」
「いや、そんなつもりはないが。だいいち入院中はあの………ときどきキスしたくらいで………」
言葉尻を濁して、あぁ…と嘆息したデジェルがうつむいた。
カミュは、童虎に悟られていても、先の聖戦を闘い抜いた聖域での大先輩で酸いも甘いも噛み分けた人生の達人ではしかたがない、と半ば納得しているふしがあるが、デジェルにしてみれば童虎は年下の同僚だ。どう考えても嬉しくはない。
「童虎くらい長く生きていたら、セブンセンシズどころかエイトセンシズに目覚めていても不思議はないからな。こんど会った時が恐ろしい。一目で看破されたりして。」
「私たちはクールに徹するとして、カルディアはどうだろう?ミロはその点では徹底してポーカーフェイスを貫いている。人のいるところでは、だが。」
人目のないところではすぐになにかと色めいたことを言いかけてくるミロは、困惑するカミュの反応を楽しんでいるらしい。抗議すると、すまん、といいながらまた同じことを繰り返すのだから手に負えぬ。
「では、そのあたりもカルディアにレクチャーしてもらおう。とっくにミロに相談してるはずだし……夜中に電話まで掛けたりして………ほんとにそちらにもとんだ迷惑を……」
「いや、それは………」
あのときのことを思い出すとくらくらっと眩暈がするほどだ。まったくなんという………いや、これ以上は語るまい。
「蠍座だからしかたがない。」
「そうだな、それは確かに。」
二人は全責任を蠍座に負わせることにした。なんといっても能動態なのだから、そのくらいは当然だろう。
カルディアとデジェルを合流させた老師の意図の全てを確かめようとは金輪際思わないが、日本での生活と現代社会への適用の世話を老師から任されたのは事実だ。その中にごく親密な関係に関するレクチャーの要素が織り込み済みだったとしたら…。
「ではたいへんじゃろうが、カルディアとデジェルのことをよろしく頼む。なにしろ243年前で知識が止まっておるでのう。あの二人に必要なことを教えてやってくれい。」
「お任せください。ミロと二人でできるだけのことをいたします。」
「すまんのぅ。カルディアの健康管理だけでもたいへんなのに、教えることがありすぎるな。」
「教えることは好きですし、実はわくわくしています。」
「それならよいのじゃが。まあ、無理せずゆっくり頼む。ほんとうにお前さんが日本におってくれてよかったわい。ミロもいるのじゃからますます願ったり叶ったりじゃな。わしはそういうのを教えるのは苦手でのう。ではあの二人を宜しく頼む。」
いかにも肩の荷を降ろしたらしい童虎はにこにこ顔だ。
………そういうの、とは?
それに、ミロがいることが願ったリ叶ったりって?
一人より二人のほうが、方針を話し合えるには違いないが
漠然とした違和感を感じながら、ギリシャに帰る童虎を見送ったのだ。童虎はそのようなことを仄めかす人柄ではないが、カミュにあとを託すことができる安堵感が、ふっと本音を漏らさせたのではないだろうか。
老師は私たちのことを知っていて、そこにカルディアとデジェルが合流する
どちらも蠍と水瓶で、あまりにも符節が合いすぎるのは事実だ
自分たちで解決できなかったときに相談を持ちかける相手としては最適だろう
「そうか、童虎がカミュたちのことを知っているのでは私たちのことを知るのも時間の問題だろう。これから頭が上がらなくなるのか?カルディアはきっとむくれるだろうがしかたがない。で、シオンにも知られてる?」
「たぶん大丈夫だと思う。老師は余計なことはお話しにならぬお方だ。ただ……サガは知っているし、あと二人くらいはたぶん。」
これまでの経緯からするとデスマスクとアフロディーテが察知しているのも確実だろう。すでに黄金の半数近くが知っていることになる。
「ずいぶんな情報開示だな。それも時代の趨勢?」
「いや、そんなことは。悟られぬように十二分に注意を払っているつもりだが、なにかの折に気付かれるのだろう。ミロは気にするなと言うし、私も努めて考えないようにしているが………ほんとに困る。」
顔を見合わせて苦笑する。知られるということは想像されるということで、なにを想像するかというと………
「喉が渇いた。茶を淹れよう。それともコーヒーか紅茶がよいだろうか?」
カミュがフロントに電話を掛けて10時のお茶を断わった。とてもではないが美穂と顔を合わせたくない心境だ。
「ではコーヒーを。砂糖を入れたコーヒーがとても美味しくて。ほんとにいい時代だ。」
頷いたカミュが茶箪笥からカップを出してコーヒーの用意をする。
「それって………え?コーヒーは豆だと聞いているが?」
スプーンに乗っているのはフリーズドライのコーヒーだ。どう見ても豆ではない。
「これはフリーズドライといって、直訳すると凍結乾燥の意になる。コーヒー液を低温で凍結粉砕させ、真空中で水分を除去したものだ。保存が利き風味も損なわないのでよく利用されている。」
「ほう!凍結に水分除去なら私たちの専門だ。カミュとはこういう話をしているほうがいい。さっきはちょっとつらかった。」
「ほんとに!アカデミックな話題なら私も口が回る。ああいう話題は苦手だ。」
コーヒーのいい香りが漂ってきた。カミュが砂糖壷の蓋を取るとコーヒーシュガーが現れた。不定形の褐色の結晶がデジェルには珍しい。
「これは氷砂糖にカラメル溶液を加えて茶褐色にした砂糖だ。徐々にとけるので甘さの変化を味わうことができる。氷砂糖は知っている?砂糖を加工して氷のような形状にしたものだが。」
「いや。それも氷か。やはり私たち系だな。」
「ほんとに。蠍はどこにも出てこない。ミロが聞いたら頬を膨らます。」
「で、カルディアが、俺たちの出番は夜だから、と言って私たちを赤面させることになる。」
「当たりだ。」
苦笑したカミュが北海道銘菓 「白い恋人」 を出してきた。共通の体験を告白したことが良い方向に作用して和気藹々と話は進む。互いの馴れ初めや日ごろの想いを語るのはどちらにとっても新鮮で、おのれの心の中を覗くよい機会になった。
「ありがとう。おかげで今夜は………その、楽になる。」
「いや……役に立てて何よりで。」
「あの二人、いまごろ温泉に浸かっているかな。」
「手足を伸ばしてのびのびというところだろう。」
「まったく人の気も知らないで。」
「蠍座だからしかたがない。」
「ほんとに。」
明るい笑いがこぼれた。
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