◇その32◇
「おい、ミロ。お前のほう、昨日はどうだったんだ?」
「どうって、べつにどうということも…」
登別温泉の奥座敷、地獄谷をのぞむ大きな露天風呂の隅に追い詰められているのはミロだ。
「水臭いな、聞かせろよ。今夜の参考にするから。」
「いや、いつもと変わりないし。」
「その ”いつも” を知りたいんだよ。ビフォーアフターはどんなだ?」
「そんな内密すぎる話を公衆の面前ではできない。」
「公衆って言うが、向こうの隅に年寄りが三人いるだけで、おまけに俺たちがしゃべっているのはギリシャ語だ。こういう場合は公衆じゃなかろう。浮世風呂って、知ってるか?昔、童虎に聞いたことがあるんだが、東洋のどこかの小島の文学で、風呂に入って汗を流しながら気さくな世間話をするって主旨の奴だ。で、なんとかっていう黄色い表紙の本があって、親密な愛情交換の話が書いてあるんだそうだが、どんな本か知ってるか?」
「そ、そんな本は………」
ミロの脳裏に江戸文学の黄表紙のことが浮かんだ。カミュと一緒に江戸東京博物館に行ったときにざっと説明を読んできたからそのくらいのことは知っている。しかし、ここでそれをカルディアに言うつもりはなかった。うっかり言及しようものなら、ネット検索をやらされて最悪の場合は春画まで辿り着かされる破目になることさえ考えられる。
「俺もいつデジェルを残して逝くかわからんし、それまでにあいつにできるだけのことをしてやりたいんだよな〜、わかるだろ?で、ビフォーアフターの件だが、」
「でもっ…」
スコーピオンのミロ、ピンチである。
「デジェルがいろいろ気にしてるんだ。お前がどうしても話さないなら、カミュに直接聞いてみてもいいか?俺としては別にそれでも、」
「だめだっ!」
「ほれ、あそこに外人さんがおるのぅ。」
「日本の風呂も国際的になったもんじゃ、ほれ、なんといったかのぅ?………ああ、思い出したわい。
『 出る前にローマへ 』 みたいじゃなぁ。」
「違う、違う。テルマエ・ロマエじゃろ、それは。 あの風呂好きの外人さんの話。わしゃ、孫に見せてもらったわい。」
「それそれ、そのロマエ。あれとそっくりじゃのう。外人さんと風呂に入るなんて、わしらも国際的になったもんじゃ。」
「ありゃ、英語じゃありゃせんのう、きっとイタリア人じゃな。やっぱりテルマエ・ロマエじゃ。」
「孫に自慢できるの〜、金髪で青い目じゃから、正真正銘の外人さんじゃあ。」
祖父にコミックスを見せた女子大生の孫が真相を知ったらさぞかし羨ましがるに違いない。話題の主は古代ローマの浴場設計技師ルシウス・モデストゥスではなくて、登別郊外の宿に滞在している噂の外人さんなのだから。
「ふ〜〜ん………で、それからどうなったんだ?もっと詳しく聞かせろよ、ミロ。」
「だから、それはっ…」
ミロ、受難である。なんとかして話をはぐらかしたいのだが、そのたびにカルディアは、
「俺もいつ死ぬかわからないし、そうなったら残されたデジェルが不憫で…」
と声を落として目を伏せる。ミロの本音を引き出そうとするいつものやり口なのだが、けっして嘘ではないのでミロも頑強に断ることができかねるのだ。
こうして知りたかったことをミロにあらいざらい吐き出させたカルディアはご満悦だ。
「もういいか?ちょっとサウナに入ってくる。」
「ああ、ゆっくりやってくれ。俺はこっちにいるから。」
義務を果たしたミロが湯から上がって付属のサウナに姿を消した。心臓に負担のかからぬようにカルディアはサウナに入ることはない。
なにやらしゃべっていた年寄りたちが上がってゆき、あとはカルディア一人になった。
季節は10月で北海道の野山は秋一色だ。大きな窓の外に見えるナナカマドや白樺の赤や黄色の葉が青空によく映えて美しい。
かけ流しの湯の音がするだけの浴室の快さにカルディアは目を閉じた。
突然大きな水音がした。
はっとして目を開くとすぐ目の前の湯の中から男が一人浮かび上がったのだ。さっきまで鏡のようだった湯の面が盛大に波立っている。
えっ? ここに誰かいたか?
てっきり俺一人だけだと思ったが?
驚いたが、実際に人がいるのだから、目を閉じているうちにいつの間にかうつらうつらして、その間にこの男が入浴してきたのだろうとカルディアは考えた。
その男は意外なことにカルディアと同じくヨーロッパ系らしい。体格がよく筋肉もしっかりとついている。日本に来てから裸の日本人は何人も見ているが、そのいずれもやわな体つきだったのに比べるとたいしたものだ。
ともかくはじめての同胞と会って嬉しくなったカルディアはちょっと頷いて軽く手を上げてみた。きょろきょろと周りを見回していたその男はカルディアを認めるとなにか話しかけてきた。
あれ?これは………そうだ、たしかにラテン語だ!
あのときはいやいや習っておいたが、やっと役に立つ
「よかった!やっと平たい顔族以外の人間に会えた!言葉が通じるとはありがたい!」
……平たい顔族ってなんのことだ? 俺の聞き間違いか?
過ぎし日に聖域で教わったラテン語にはそんな言葉はなかったが、無理やりに意味をこじつけるとそういうことになる。
「ここはローマの属州のどこにあたるのか知っているか?私にはさっぱりわからない。」
さあ、これがカルディアにはわからない。属州とは、何のことだろう?
「どこって、ここは日本だが。そうだな………ローマから見ればずっと東のほうだ。かなりの距離がある国だ。」
ローマというからにはイタリア人に違いない。イタリアといえば隣国で、親しい気持が湧いてくる。
「そうか、ニホンというのか。見たこともないものが多すぎて驚くばかりだ。そうは思わないか?かなり技術が進んでいる。」
言葉が通じるのがよほど嬉しいのか、男はカルディアにしきりと話しかけてきた。カルディアの語彙にない言葉も多くていまひとつ意味が不明だったりするが、言いたいことは何とかわかる。
「正直言って、俺も最初はすごく驚いた。見たこともないものが多すぎる。とくに驚いたのはあの水道だな。ひねると湯や水が適温になって出るんだぜ、シャワーもすごく便利だし。すごい技術だよ。この国じゃどこにでもある。羨ましいね。」
カルディアが洗い場のほうを見た。なんの変哲もない水洗金具がたくさん並んでいて、日本人にはなんということもない光景だ。
「前から聞きたかったんだが、あの入れ物はなんだ?」
男が指差したのは水洗金具のそばに並んでいるヘアケア製品の容器だ。
「ああ、あれは………Σαμπουαν とか Ξεπλυμα だよ。わかるかなぁ?」
しかし、男は首を振る。そもそもシャンプーもリンスも243年前には存在しなかった品物なので、ラテン語の語彙には存在しない。カルディアもミロから教わったとおりにギリシャ語でしか覚えていない代物だ。
「ええとつまり、頭を洗うんだよ、そのための石鹸だ。」
「セッケン?」
自分の頭を指差しながら言ってみたが、相手は首をかしげるばかりだ。
ああ、これも通じないのか………
この男の国じゃ、あんな入れ物には入っていないんだろうな
しょうがない、実践しよう
どうせこれから洗うつもりだったし
「頭を洗うんだよ、つまり髪の毛を洗うんだが。」
湯から上がったカルディアは手近な椅子を取ると慣れた様子で頭を洗い始めた。髪を包んでいたタオルをはずすと長い髪が現れたので男はずいぶん驚いたらしい。
「なぜそんなに長くしてる?」
「う〜ん、この時代には珍しいんだよな、どこにいっても注目されるけど、俺はこれが好きだから。ほら、これで頭を洗えばいい。日本のは品質がいいって聞いてる。洗ってみる?ここを押すと出てくる。すごく便利だと思う。」
「ほう!素晴らしい!この入れ物はどんな仕組みなんだ?」
シャンプー容器を手にとってしげしげと見ていた男が、今度はカルディアが使い始めたシャワーに注目し、それから自分でもシャワーを頭にかける。ポンプ容器を数回押して手のひらに乗った白い液の匂いを嗅いでから頭を洗い始めた。
「すごく泡が立つな!いったいどうやって作っているんだろう?」
「さあ? 俺もさっぱりわからない。こんなので洗ったことがなかったから感動だね。」
「まったくだ!悔しいが、平たい顔族はそうとうに優秀なようだ。」
こころゆくまで泡を立てて、きれいにゆすぐと今度はリンスの番だ。
「ほら、こっちがリンス。これで髪をゆすぐと絡まらなくてブラシを使っても髪が痛まないんだ。大発明だよ。」
「ほう!これもいい匂いだな、ハーブか?」
「なんだろうな、俺にもわからない。ここに説明が書いてあるけどさっぱり読めない。」
「言葉がわからないっていうのは不便だな。」
「まったくだよ。」
和気藹々と頭を洗い、もう一度湯に浸かりに行った。
「温泉って最高だな!ほんとに日本に来てよかったよ。」
「君の国は?」
「ええと、ギリシャだ。」
「ギリシャ?」
実はギリシャという国名はカルディアにはあまり馴染みがない。聖戦当時のギリシャは300年以上もオスマン帝国の支配下にあり、聖域とかアテネという言葉で自分のいる土地を呼び習わしていたというのが実情だ。いくらなんでも自分の国をオスマン帝国とは呼びたくもないが、ギリシャとも言い難い。
蘇ってからはミロとカミュに現在の国際情勢をレクチャーされて、いまではギリシャという独立国になったことを理解しているが、たぶんイタリア語の発音とは違っていて、わかってもらえないのだろう。
「ええと、昔はマケドニアともいったかな。アテネがあるところだ。」
「ああ!君はマケドニアの!そうかそうか、それはローマの属州だ。とても栄えているところだよ。」
満面に笑みを浮かべた男が握手を求めてきた。なにがなんだかわからなかったが、カルディアも手を差し出した。遠い日本で自分の国を知っている人間と会うというのは不思議なものだ。
それから二人でこの国の技術の素晴らしさを話していると、後ろでサウナの扉が開く音がした。振り返ると、サウナから出てきたミロが身体を朱に染めて大きなタオルで汗をぬぐっている。
「ああ、ミロ、サウナはどうだった?」
「この熱さがたまらないな。ずいぶん汗をかいたよ。」
「俺も心臓が大丈夫なら試してみるんだがな。そうだ、今度はサウナに………あれ?」
振り返ると男がいない。確かについさっきまで隣にいたはずだ。
「……え?どこに行ったんだろう?」
「どうしたんだ?」
「だって、さっきは確かにいたんだぜ?あれ?」
「誰が?」
「ローマ人だ。ラテン語でちょっとしゃべってたんだけど、もう上がったのかな?」
「ラテン語とは珍しいな。いなけりゃ、上がったんだろうな。ほかになにがある?」
「う〜ん、それはそうだが。」
納得がいかないカルディアは首をひねっている。
ミロが火照った身体にぬるま湯のシャワーを浴び始めた。
⇒
ローマ帝国の浴場技師、ルシウス・モデストゥスとの邂逅です。
ご存じない方は こちら をどうぞ。
引用したギリシャ語はシャンプーとリンスのことですが、
一部表示されない文字があり、正確な綴りではありません。
その旨、ご了承ください。