◇その33◇

「カミュ様、あの……恐れ入りますがフロントまでお越し願えますでしょうか。」
美穂から電話があったのは11時ごろだ。
「なんでしょうか?」
「それがあの、外国の方がいらしていて、私どもでは話が通じませんので、カミュ様でしたらもしかしたら、と思いまして。ご足労願えましたら幸いです。」
「なるほど。わかりました。今そちらに行きます。」
ほっとしたらしい美穂のお礼の言葉を聴いてからカミュが受話器を置いた。ミロとカルディアは温泉めぐりに出かけていてまだ戻ってきていない。、デジェルとの緊張する話もとうに終っているのでちょうど時間も空いている。
「ちょっとフロントまで行ってくる。外国人が来ていて話が通じなくて困っているそうだ。」
「その人物がギリシャ語かフランス語を話しているということか?」
「さて?それならそれで翻訳機が……ああ、そうだ、見せたいものがあるからデジェルも一緒に来てほしい。」
F I レーサーのヤルノとナノが来たときに活躍した翻訳機はその後もときどき便利に使われている。どこの国の旅行者もその便利さに驚き、その機械を作ってしまう日本人にさらに驚くというのが通例だ。
ほとんどの旅行者はこの魔法の機械をどこで売っているか知りたがるので、フロントではメーカーから取り寄せたパンフレットを常備しているほどだ。操作して見せれば、きっとデジェルも目を丸くするに違いない。

カミュとデジェルがフロントに行くと、なるほど背の高い男の後姿が見えた。浴衣を着ているのだが、その着方がどうにもおかしい。

   浴衣を着ているということは泊り客か?
   それにしても妙な着方だが………

前後を逆にした浴衣に片袖を通し、もう片方の肩を出しているというのは日本の着物を着るのが初めてなのだろうが、ちょっとシャカの偏袒右肩 ( へんたんうけん )という衣の着付けをカミュに思わせた。
カウンターの向こうにいた美穂がカミュを見て、ほっとした顔を見せた。
「カミュ様、お呼びたていたしまして申し訳ございません。こちらのお客様の言葉がどうしてもわからなかったものですから困ってしまいまして。」
男が振り向いた。三十代半ばらしいがっちりした体つきで明らかにラテン系の顔立ちだ。髪は短めでよく日焼けしている。
「英語がだめだったので翻訳機でいろいろ試したのですけれど、どうしても上手くいきませんの。」
「それは困ったでしょう。でもここの泊り客なのにどうして国籍がわからないのですか?」
「いいえ、当方のお客様ではありませんので。」
「え?」
これにはカミュも驚いた。泊り客でないのに、なぜこの宿の浴衣を着ているのだろう?この宿では日帰り入浴は受け付けていない。
「すると、なぜ彼がここにいるのです?」
「それが……係りの者が露天風呂の清掃に参りましたら、お一人でご入浴なさっていて。お声をかけましたけれどさっぱりお分かりにならないし、どういうわけか、脱衣室にお召し物もなかったのでとりあえず浴衣をお召しいただいたのですが………どうしましょう?どこからおいでになったのか、誰も知らないんですの。」
「辰巳さんに相談は?」
この宿の支配人は辰巳である。今日は休みなのか、朝から姿が見えない。
「東京に出張でいらして、今は飛行機の中ですわ。」
「それではどうしようもありませんね。」
カミュが男にロビーの椅子にかけるように促すと、素直に腰掛けてテーブルの上においてあったガラスの灰皿を手に持ってしげしげと眺め始めた。
「翻訳機も試したんですね?」
「ええ……でも、とてもびっくりなさってなにかおっしゃるんですけれど、どの国の言葉がわかるのか、まったく判別がつきませんでした。」
「ふうむ………ともかく私が話してみましょう。」
横にいてなにがなんだかわからないでいるデジェルにざっと経緯を話してからカミュが男に話しかけた。英語、フランス語、ギリシャ語、ロシア語、すべて反応がない。それではとフロントから借りてきた翻訳機でスペイン語、ポルトガル語、ドイツ語などを試してみたが、どれも不発に終った。むろん初めて翻訳機をみたデジェルの驚きもたいへんなものだったが、この時代の技術の先進性はよくわかっているのであとで詳しく訊こうと思ったらしく、じっと観察するにとどめている。
通じはしなかったものの、男は翻訳機に多大な興味を示し、キーを押すと液晶画面に文字が表示されることに驚愕した。初めて翻訳機を見る外人は感心しつつ驚くというのがもっぱらだが、この男は驚愕・畏怖・動揺といった様子で、その大げさな反応はカミュに疑念を抱かせた。

   いくらなんでも驚きすぎる
   翻訳機は知らなくてもパソコンを知らぬはずはない
   なぜこんなに驚くのだろう?

そのとき男の発した言葉がカミュをはっとさせた。同時にデジェルも声を上げる。
「カミュ!これはラテン語だ!」
「驚いたな。まさかラテン語とは!」
この時代にラテン語しか話さない人間がいるとは思えない。現代のラテン語は日常的にはもはや死語に等しいとまで言われているほどの希少な言語で、ヨーロッパ知識階級では必須であるが、趣味と学問と宗教の世界でかろうじて生き残っているに過ぎないのだ。
なんにせよラテン語なら話ができる。カミュがいくつか質問すると嬉しそうにした男が自己紹介をしてくれた。
「私はルシウス・モデストゥス、ローマ市民だ。」
「ああ、ローマからいらしたのですか。私はギリシャから来たカミュです。こちらはデジェル。」
「ギリシャとは?ローマの属州ではないな。」
「属州?」
カミュの知識の基礎はギリシャ語だ。ラテン語の ”属州” は守備範囲外に過ぎたし、そもそもラテン語の語彙は現代にはミスマッチである。現代の事象や概念をあらわす単語はラテン語にはない。
ゆえにパスポートや宿泊先のことを聞いてもさっぱり要領を得ないし、どうやってここに来たのかも不明である。車かバスか、もちろん飛行機かどうかも判然としない。
「どうしよう?お手上げだ。信じられぬことに名前と出身地くらいしかわからない。」
さすがのカミュもさじを投げた。心配していた美穂がそっとため息をつく。
「どうしましょう? 警察に連絡したほうがいいでしょうか?」
「それは………さて、どうしたものだろう?」
カミュとしては、美穂に頼まれたことを安易に警察に任せたくないのだ。 やっとラテン語で話ができたのに、官憲の手を借りるなど、自らの沽券にかかわると考えている。早い話が屈辱である。だいいち、警察署にラテン語がわかる人間がいるとは到底思えない。
二人でどうしたものかと相談しているところに戻ってきたのはミロとカルディアだ。
「ただいま!やっぱり温泉は何度入っても………ん?どうしたんだ?」
ミロはとくになんとも思わなかったようだが、カルディアはそうではなかった。
「あれっ! あんたはさっきの……! どうしてここに?」
その声に顔を上げた男がカルディアを見た。すっくと立ち上がり、つかつかと歩み寄ってきた男に手を差し出されたカルディアが、反射的に握手をすると男が嬉しそうに笑う。
「カルディアと知り合いなのか?どうして?」
「えっ?いったいなんだ?」
カミュとデジェルが唖然とし、さらに事情のわからないミロが怪訝な顔をする。ただ一人安心したのは美穂だけだった。


                         



       
   ローマ帝国の公用語はなんとラテン語でした。
   この日のためにサガとアイオロスは幼い黄金にラテン語を教え込んだのね。
   先見の明に脱帽です。