◇その34◇

「どうしてカルディアと風呂に入っていたのに、そのあとでここに来てるんだ?さっぱりわからないが。」
「私にも謎だ。」
「本人に聞いてみるのが一番だと思うぜ。」
ローマ人を名乗るルシウスとカルディアとの驚きの再会が一段落した一同の疑問はそこに集まった。
「どこにお泊まりですか?」
「え?どこにも泊まっていないが。自分の家にいるに決まっているだろう。」
「するとあなたは登別市内に住んでいる?」
「ノボリベツ?私はローマ市民だ。ローマに住んでいるのだぞ。」
さあ、すでにここでわからなくなってくる。
「だから、ローマからここに旅行してきたのでしょう?」
「いや、そうではない。カルディアにここがニホンだと教えてもらったから、自分が今ニホンにいる事は知っているが旅行ではない。なぜかはわからないが、私はときどきこの平たい顔族の土地にやってくるのだ。自分でも不思議だと思っている。」
一同、沈黙である。
「カミュ……平たい顔族っていうのが日本人を指しているってことはわかる。だが、そのほかのことは全然理解できないんだが、俺ってやっぱりラテン語の読解力に相当欠けているんだろうか?」
「安心しろ。私も全然わからない。」
こんなふうに太鼓判を押されてもミロ的にはあまり嬉しくはない。どう考えてもカミュのレベルのほうがはるかに上だろう。
「ローマの住所を聞いても意味がないしな。ああ、そうだ、自宅の電話番号を聞いて国際電話をかければいいじゃないか!勤務先でもいいし。だれかに連絡できれば解決するぜ。」
「なるほど!」
しかし、電話番号という単語はラテン語にはないことをデジェルが指摘したので、話はまた振り出しに戻った。平然としているルシウスの周りで四人があれこれと協議していると美穂がやってきた。
「あのぅ、お昼食の用意ができましたが、いかがなさいますか?」
「ああ、もうそんな時間か。すまないが彼の分も用意ができるだろうか?まだまだ話が終らないのだが。」
「はい、厨房に連絡してみます。」
お辞儀をした美穂が下がっていった。
「今日の昼食はなんだったろうか?」
「たしか十勝牛のカレーだったと思うぜ。カレーなら余分に作るだろうからルシウスのも大丈夫だろう。」
食べる事が楽しみなカルディアは献立のチェックを怠らない。感染症を避けるため火を通さない魚肉類は食べないので、仮に海鮮丼だとしたら、カルディアにはほかの献立が用意されることになっている。そこへ美穂が、
「大丈夫でございます。そちらのお客様のカレーも用意できるそうです。」
と言ってきたので、みんなで食事処に移動した。その途中もルシウスはあたりのものにいちいち感心して質問をする。天井のスピーカーから軽音楽が流れているのにはいたく感心したようで、あそこで誰が演奏しているのかと真顔でカルディアに訊いてきた。最初に出会ったのがカルディアだったのでとりわけ親近感を覚えるらしい。
「ああ、あれね。俺も最初は不思議だったんだけど、ええとあれは………おい、デジェル、録音とかCDとかってラテン語でどう言えばいいんだ?」
「不可能だ。」
「あっさり言ってくれるな。ええとだなぁ、うん、俺に言わせれば神の御技だ、そうとしか思えない。人間技じゃないな。」
またそんなことを…!とデジェルは思ったが、驚いた事にルシウスはそれで納得したらしい。
「平たい顔族だからな、うん、そんなこともあるのだろう。悔しいが、たいしたものだ。われわれも見習わなければならん。やはり平たい顔族もウェヌス神を信仰しているのだろうな。」
「え?ええと………おい、日本の神ってどういうのだ?」
こういうときはカミュに聞くに限る。
「日本は八百万、すなわち多神教だ。日本古来の神々もいるが大陸から伝来した宗教も懐深く受け入れてきたという歴史がある。」
「ふうん、融通が利くんだな。うん、いろいろな神を信仰してるからウェヌス神もあるんだと思う。」
「やはりな。」
いや、それはない。

食事処の暖簾をくぐる。
十月なので季節の秋草の柄の暖簾が掛かっているのをルシウスはしげしげと見て、
「なるほど、季節をあらわしている日よけ布とはいい考えだ。」
などと言っている。
「今日は6人掛けのテーブルだな。じゃあ、ルシウスはここに。」
カトラリーが用意されているテーブルに5人が座るとすぐにビーフカレーが運ばれてきた。
「あ、それからビールも頼もうかな。グラスは4つで。」
「昼間から飲むのか?」
「うん、たまにはいいだろ。ルシウスの話もじっくり訊きたいし。」
すぐにビールとグラスが届けられ、ミロがルシウスにも注いでやった。
「これは?」
「ビールだよ、イタリアじゃワインだけだったかな?日本のビールは美味いからぜひ飲んで欲しい。」
ミロが知らないだけで、イタリアにもビールはある。ルシウスはミロが開けた王冠を手にとって裏と表の観察に余念がない。栓抜きも手にとってしげしげと眺めている。
「では乾杯を。」
カミュ以外の四人がグラスを軽く合わせてルシウスもゴクリと飲んだ。
「……こ、これはっ!酒なのかっ!」
またルシウスが驚愕した。
「酒っていうのも大げさだけど、酒は酒だな、うん。」
「この白いのは泡か?ずいぶん細かい。なぜ泡があるんだ?」
「え?なぜって………ええと、この泡って炭酸ガスだっけ?、カミュ、なぜ?」
数え切れないほどビールを飲んできたミロだが、ビールの泡については、当たり前だ、くらいの意識しかない。それはごく普通の感覚だろう。べつにミロだけに限るまい。
「ビールの泡は炭酸ガスの周囲にタンパク質、炭水化物、ポリフェノール、イソフムロン(ホップの苦味物質)などがついてできたものだ。これらをラテン語で言うのは不可能ゆえ単に、昔からビールには泡がある、と答えておけばよいだろう。」
「あ、そう………そりゃそうだな。」
苦笑したミロが琥珀の液体を透かしてルシウスを見た。
「ビールに泡はつきものだ。美味いだろう。ビールはエビスだよ。プレモルもいいけど、俺はやっぱりエビスだな。」
「美味いし、とてもよく冷えている!実に素晴らしい!これを持って帰れたらいいんだが。」
「だろ。夏になるとますます喉にキューっと来る。空港で売ってるんじゃないかな?飛行機に持ち込めるのかな?カミュ、知ってる?」
「いや、それに関しては知らない。あとで調べてみよう。」
さすがのカミュも機内へのアルコールの持ち込みの可否など知るはずもない。ちなみに国際便への缶ビールの持ち込みは機内持ち込みでも荷物として預けてもOKである。
グラスの半分まで飲んだカルディアがルシウスに福神漬けとラッキョウを勧めた。
「これをカレーの付け合せにするといいと思う。日本のピクルスだ。」
「ほう!」
「カレーって最初は慣れなかったけど旨いと思う。ギリシャにいたんじゃ、食べられない味だ。ルシウスはカレーは食べた事ある?そもそもイタリアって、カレーはあるのか?」
むろん、ラテン語に ”カレー” なる言葉はない。カルディアも日本語の発音そのままに覚えているだけだ。
「……カレー?いや、まったく初めてだ。異様な匂いだな。平たい顔族の固有料理なのだろうな。」
スプーンの仕上げを観察して柄の裏のごく小さな文字の刻印に感嘆の声を上げていたルシウスがカレーをつつき始めた。
「我がローマ帝国の属州も、遠隔地となると珍しい食物があるのは当然だ。」

   ………ローマ帝国の?
   あっ、属州とはローマ帝国の属州のことか!?

カミュがこの言葉を聞きとがめたのは当然だ。ラテン語で書かれた西洋史の書物を紐解いたときにしばしば目にしていた単語であるが、最初に聞いたときは属州という単語しか聞かなかったので意味をつかみかねていたのだ。しかし、今ルシウスがローマ帝国という枕詞をつけたことにより遠い昔の記憶が蘇った。最初にルシウスに会ったカルディアはカミュほどラテン語に精通していないので ”属州” についてはスルーしたが、カミュのアンテナにはこの言葉が引っかかった。

   まさかとは思うが、ルシウスの言うローマ市民というのはもしやローマ帝国の?
   いや、そんなはずはない! でも………

カミュの胸に一抹の不安がよぎる。
「ちょっと訊きたいのだが………ルシウス、あなたの国の元首は誰だろうか?」
「決まっているだろう、ハドリアヌス帝だ。」
「ハドリアヌス帝!まさか、そんなっ!」
カミュが大きな声を出してミロを驚かせた。とてもいつものカミュの振る舞いとは思えない。遠くに控えていた美穂が驚いたようにこっちを見た。
「ハドリアヌス帝だって! でもハドリアヌス帝はもうとっくに………え?」
カミュの隣でデジェルが疑いのまなざしを向ける。
「ハドリアヌス帝は第14代のローマ皇帝で賢帝として知られている。内政を重視し、在位21年のうち半分以上を属州の視察に当てている。建築に情熱を燃やし、今も各地にその業績を見る事ができる。そのハドリアヌス帝が元首とは?」
「なかなか詳しいな、その通りだ。今はバイアエの別荘におられるが、まだまだお元気だ。うむ、カレーというのはなかなか珍しい味だな。この香辛料は初めてだ。」
「お元気って………だって、そんな事があるはずはない!」
「ああ、そうか、ここはローマからは遠く離れているからな。皇帝陛下は半年ほど前に体調を崩された事があったから、そのときの噂しか伝わっていないのだろう。心配は要らない。ご養子のルキウス・アエリアス・カエサル殿にはまだ皇帝の座はお譲りにはならないだろう。私が皇帝専用の浴場を作ってベスビオ火山の温泉を引き入れてからはすっかり健康を取り戻されたのだ。現に私は五日ほど前に直接お目にかかって次の浴場建設の指示を受けている。」
「…え?浴場建設とは?」
もはや四人は疑惑の真っ只中である。あまり歴史に詳しくないミロとカルディアでも古代ローマ帝国のハドリアヌス帝の名前くらいは聞いたことがある。西暦何年かまでは知らないが、ともかくあのカエサルと同時代の歴史上の人物だ。
「まだ言ってなかったな。私はローマで浴場の設計を仕事にしている。ハドリアヌス帝にはとくに目をかけていただき、市内の浴場の建設だけでなく各地の別荘の浴場の設計もお引き受けしている。来月には元老院議員のコルネリウス殿の私邸の浴室の工事に取り掛かる予定だ。」
「えっ…」
沈黙が下りた。


                         



       
   カレーを食べるルシウス。
   まったく違和感ないんですけど。