◇その35◇

訊いたばかりの話を頭の中で咀嚼してから顔を見合わせた四人がいっせいにギリシャ語でしゃべり始めた。
「おい!今の話はなんだ?ハドリアヌス帝って2000年くらい前じゃなかったか?」
「カエサルと同じ時代なんて、そんな馬鹿な!」
「ありえない!彼はウソを言っている!私は信じない、信じられるはずがない!」
「まあ、落ち着こう。あまり興奮するとルシウスが驚く。」
そのルシウスはカレーが気に入ったらしく、角切りのジャガイモや人参を吟味しながら食べている。
そういえば、浴衣の妙な着方もトーガの着付けと似ているような気もするし、そもそもラテン語しか話さないというのが現代離れしすぎているだろう。
「荒唐無稽すぎて信じられないが、演技にしては真に迫りすぎているように思うし、そんなことをする理由もないだろう。」
「だからといって、ルシウスがローマ帝国時代の人間だなんて有り得ないぜ。タイムスリップしたとでも思ってるのか?きっと彼は歴史研究家なんだよ。で、ちょっと変人なんだ。研究熱心すぎてストレスが溜まったんじゃないのか?で、自分が古代ローマ人だと思い込んでるんだ。俺はそう思う。」
そう自説を展開したミロがルシウスのグラスが空になっていることに気付いて水のお代わりを美穂に頼んだ。ずしりとしたグラスが気に入ったらしいルシウスは放射状のカットラインを指でなぞって観察に余念がない。
「お冷やをお持ちいたしました。」
「ありがとう、あとはこっちでやるから。」
美穂からステンレスの水差しを受けとったミロは、ルシウスにグラスを置くようにと言って冷たい水を注ぐ。
その拍子に中に入っている氷がカラカラと音を立て、それがルシウスの気を惹いた。
「なぜ音がするんだ?」
「なぜって………氷が入っているからだよ。」
「氷が?なぜ氷があるんだ?」
また沈黙が下りた。

   なぜって、冷やすからに決まっている!

四人とも同じことを考えたが、ルシウスはなぜそんなわかりきったことを聞くのだろうという疑問も同時に芽生えた。蘇生した当初は氷がごく普通に存在することに驚いたカルディアとデジェルもカミュに説明を受けてからはなにも疑問に思っていない。

   この驚きようは、まるでカルディアたちが初めて氷を見たときのようだが?
   まさか、ルシウスも蘇生を? いや、そんなはずはないが

ますます疑念をいだいたカミュが、なんとかしてルシウスがいつの時代の人間であるのか特定する方法はないかと模索していると、
「前から疑問だったのだが、平たい顔族はどうやって飲み物を冷やしているんだ?残念だが、我がローマ帝国にはそのような技術はない。それを思うと悔しくてならないのだ。」
真剣な顔をしたルシウスがミロに尋ねた。
「ええと………カミュ、なにか意見は?」
返事に窮したミロがカミュにふった。むろんカルディアとデジェルも期待を込めてカミュを見る。
「それは………平たい顔族は飲み物から熱を取り除く方法を知っている。その技術のおかげで氷を作ることもできるのだ。このようにぬるい水に氷を入れれば冷たくして飲むことができる。」
真面目な顔でそう言ったカミュがステンレスの水差しを引き寄せた。中の水位までいっぱいにしずくをつけた水差しの蓋を開けると、ルシウスに見せてやる。
「あっ!これは氷か!信じられん!冬ではないのになぜ氷がっ!」
「そこが平たい顔族の優れたところだ。」
したり顔でカミュが答え、当たり障りのない会話をしながら全員がカレーを食べ終えたころに美穂がデザートを持ってきた。
「今日のデザートは夕張メロンシャーベットとラムレーズンアイスクリームでございます。」
「ああ、ありがとう。」
青や緑が美しい沖縄ガラスの器にディッシャーで丸く盛り付けられた二種類の氷菓がのっていて目にも爽やかだ。
「アイスクリームだけどルシウスは知ってるかな?これも平たい顔族の特産品だけど。」
ミロもすでにルシウスの出自を疑い始めていて探りを入れてくる。
「いや、知らぬ。」
「早く食べないと溶けてくる。甘いぜ。」
みんな素知らぬ風を装いながらルシウスの挙動を伺っていることは明白だ。ルシウスがラムレーズンアイスをすくって口に入れた。
「………こ、これはっ!」
目を見開いたルシウスは絶句して、それから銀色のスプーンで丸いアイスとシャーベットをつついて、今度はシャーベットのほうを食べてみた。
「ん〜……」
と見る間にルシウスがはらはらと涙を流した。

   えっ!なぜ泣く?

「ああ、負けた!我がローマ帝国は平たい顔族に負けている!辺地の属州がこのような美味い物を作れるというのに、ローマでは上流階級といえども果物や蜂蜜くらいしか甘いものを楽しめない!我々ローマ市民はどうしたらよいのだ?!」
「いや、あの………」
「これだけの技術を持ちながら辺地の属州に甘んじているニホンのことを皇帝陛下も元老院議員も関知していないのはどうしたことだ?」
きっと睨まれたミロが、
「ええと、そのへんは俺にもよくわからないけど………ともかくこれを食べてくれ。溶けやすくてすぐにどろどろになってしまう特殊な食べ物なんだ。うん、溶けるから遠いローマには運びようがないんだろうな、きっと。」
急いでそう言ってカミュをちらっと見る。

   おい!これは本物か?
   つまり、本物のローマ人なのか? どう思う?
   なにか証明する方法はないのか?

カルディアとデジェルもなにか忙しくテレパシーで会話をしているらしい。黙々とデザートを食べ終えたあと、みんなで娯楽室に移動することにした。
「ここは図書室のようなもので本がたくさんある。自由に読んでよいことになっている。」
「ほう!アレキサンドリアにも大規模な図書館があると聞いているが、ニホンのは小さいのだな。うむ、なにしろ辺地の属州だからな。」
一人で納得していたルシウスが手に取ったのは北海道の四季を紹介した写真雑誌だ。
「え〜と、それはすごいぜ。きっと驚くと思う。」
ミロが口添えするまでもなく、雪の十勝岳の表紙写真に目を奪われたルシウスは手近の椅子に座り込むと熱心にページをめくり始めた。その隙に四人が頭を寄せる。
「どう思う?」
「俺はなんだか本物らしく思えてきた。」
「でもありえないぜ。おとぎ話だよ、そんなことが認められるか?俺は信じないね。」
断言するカルディアにデジェルが異論を唱えた。
「しかし、」
「え?お前は信じるのか?」
「信じるとまでは言わないが、ありえない話ではないと思っている。」
「なんでっ?」
「私たちがここにいるのがその証拠だ。」
静かな口調にみんなの目が惹きつけられる。
「私もカルディアも243年前に確実に死んだ。肉体のかけらひとつも残っていない。滅びたのだ。生物学的にも精神論的にも死んでいる。」
三人が黙って頷いた。
「しかしアテナの恩寵によって蘇った。元の肉体のままで243年前からこの時代に連れてこられたのか、それとも神の御技によって肉体が再生されたのか、そこのところはわからないが、今ここにいるのは紛れもない事実だ。そして、ミロもカミュも生き返っている。」
いつもは忘れていることを指摘されたミロとカミュが真摯な表情になった。いったんは滅びた肉体と魂とを蘇らせる神の恩寵の偉大さを想う。
「私たちがここにいるのにルシウスを否定できない。アテナの恩寵があるのなら、ルシウスにも神の恩寵があってもいいのではないか?自分たちのことは認めてルシウスの存在を認めないというのは論理的ではない。現代人であるという証拠が見い出せない以上、彼が古代ローマ人であるという推論を認めてもよいと思う。」
そのときルシウスが大きい声を出した。
「こっ、これは…!」
はっとした四人が振り返ると、外出から戻ってきた宿泊客が大型液晶テレビをつけたところだ。画面では妙齢の女性が華やかな音楽とともに妖艶なベリーダンスを披露しており、みんながあっと思ったとたん、リモコンを持った客が次々とチャンネルを切り替え始めた。
獲物を襲うティラノザウルス、地中海のクルーズ、中東紛争、アニメ・ワンピース、そして最後に映ったのはどうやら映画の 「グラデュエーター」 らしかった。観客でいっぱいのコロッセウムで剣闘士が猛獣と血で血を洗う闘いを繰り広げている。

   まずいっ!

「ルシウス、ちょっとこっちに!」
目を丸くしているルシウスを強引に廊下に連れ出すと、
「あれはなんだっ!なぜあの四角いところに兵士が入っているのだっ?!海もあったぞ!」
と当然の質問がカミュに雨あられと浴びせられた。
「あれは………つまり平たい顔族の特別な……そう、秘密道具なのだ。残念ながら、私たちローマ出身者にはその秘密は教えてもらえない。見ることだけが許されている。」

   う〜ん、あのカミュがすごい論理を展開しているな……
   秘密道具って、もしかして出典はドラえもんか?
   論理的なのか、非論理的なのか、俺にもわからん

真面目に頷いているルシウスの横で三人は笑いをこらえるのに必死である。頬を染めたカミュがひそかにミロをにらんだ。