◇その36◇

「ええと、ルシウス、さっきあなたが言っていたニホンに来たときの話だが、そのときの状況をもっと詳しく知りたいのだが。」
「ああ、そのことか。私もじつに不思議なのだ。」
いよいよルシウスが古代ローマ人らしいと見当をつけたカミュが離れに連れて行ってじっくりと話を聞き始めた。畳を珍しいと思ったらしいルシウスは座布団の上に胡坐をかいて座りながらしきりに畳をなでている。
「ともかく水や風呂に関係があるらしい。私は浴場技師だからそういった場所に出入りすることが多いが、うっかりして湯の中に落ちたり水を浴びたりすると大量の湯や水の中をくぐって溺れそうになり、やっと水面に顔を出すとそこが平たい顔族のいる場所なのだ。」
「ほう!」

   時空転移か!
   水がトリガーになっているのだな

水と氷の魔術師とも称されるカミュにとっては心躍る発見だ。おのれの身にそんなことが起こったら、と思うとどきどきする胸を抑えかねるのは無理もない。古代ローマと現代を自由に行き来できるとしたらどんなに素晴らしいことだろう。
「最初はわけがわからなくて驚いたが、そのうちに平たい顔族の優れた浴室技術がおおいに参考になると気付き、とてもありがたく思っている。我がローマの浴室が彼らに劣っていると思うと悔しくてならないが、ローマが世界に版図を広げるのは各属州から珍しい文物や優れた人材を集めるためでもあるのだから、平たい顔族の知恵を借りるのはいけないことではないと思うことにした。」
そのあたりにはだいぶ葛藤があるらしく、眉根を寄せたルシウスが苦渋の表情を見せた。
これは例えてみれば冥闘士と闘った聖闘士が敵からヒントを得ておのれの技に取り入れるようなものかもしれない。たしかにそれは嫌だろう。自負心が大いに傷つくが、今後の勝利には必要不可欠な技だとしたら苦渋の決断をするだろう。プライドのために全体の勝利を犠牲にするなど、あってはならないことだ。
「そのうちにまた湯や水を通ってローマに帰れることはわかっているので、その点については心配していない。今回もそのうちに帰れるだろうと思っている。」
「なるほど!そういうことですか。」
それならカルディアと浴室で遭遇したのも頷ける。それにしても、たまたまラテン語ができる人間と出くわしたのは奇跡的だった。
「今までに言葉のわかる人間と会ったことはない?」
「ああ、初めてだ。おかげで平たい顔族が住んでいる属州がずっと東の方にあるニホンだということがわかった。ローマに帰ったらさっそく皇帝陛下に親しくお目にかかってニホンの優れていることをご説明し、優秀な総督を派遣していただくよう進言しようと思う。ニホンの技術を取り入れることが我がローマ帝国のよりよい繁栄につながるのは間違いない。どうして今までこんなすばらしい属州のことが喧伝されていないのか不思議でならない。総督はニホンのことを詳しく報告する義務があるのに、職務怠慢としか思えない。」
「ええとそれは……」

   どう考えてもまずいだろう!
   ローマ帝国のどこを探してもニホンという属州はない
   この一本気な有様ではハドリアヌス皇帝に自説を強硬に主張して
   下手をすると狂人扱いになるのでは?

四人とも同じ懸念を持ったのは明らかで、また沈黙が降りた。わずかの付き合いだがルシウスの生真面目さには好感を持っており、その彼を苦境に陥れるには忍びなかった。

 (おい、どうするっ?いっそのこと、事実を話して理解してもらったらどうだ?)
 (それは無理だろう。タイムスリップを理解できるとは思えない。混乱するだけだ。)

「いや、それはどうでしょうか……実はここだけの話ですが、先月秘密裏に新しい総督が任命されてこちらに向かっているとのことで、ローマ帝国はニホンのことを特別な属州として遇し、内外へはその存在を公表しない方針であると聞いています。ここであなたがニホンの存在を公言すると、その発言が帝国の利益を損なうと受け取られてよくない結果を招くかも知れません。」
腕組みをしたカミュが沈鬱な面持ちで発言したのでルシウスもぎょっとしたらしい。
「えっ、そうなのか! そうか……平たい顔族がそこまでローマに重要視されていたとは……!」
ergo (ゆえに)」
姿勢を正したカミュがルシウスを見た。いかにも誠意にあふれた態度をとっているのは、本心からルシウスのことを心配しているためだ。
「ローマに帰ってもニホンのことは何も言わないほうがよいと思います。お話を伺うと今後も水や湯を介してニホンに来ることはおおいに考えられますが、万が一、自由を拘束されるようなことになってしまっては、もう二度と平たい顔族の工夫を凝らした浴場に来ることもかなわないでしょう。それではあまりに残念です。」
「そうか……たしかにそうだな。うむ、わかった。ニホンや平たい顔族のことは私の胸の中に秘めておくことにしよう。」
『 理屈と膏薬はどこにでもくっつく 』 というのはミロもよく知っている諺だが、カミュがここまでうまくルシウスを説得できるとは思っていなかっただけに感心してしまう。カルディアとデジェルもほっとしたようで、一気に表情が明るくなった。

「そうと決まれば、あなたがローマに戻る前に珍しい浴室をご案内したいと思いますが、これまでにどんな浴室をご覧になりましたか?」
当面の問題が解決したのでカミュが積極的な話題を持ち出した。
「うむ、平たい顔族は実に入浴を楽しむ術に長けている。いままで見たのは、浴室の壁画、滑り台のついた浴室、浴場めぐりのスタンプカード、湯上りの冷たい飲み物、入浴マナー掲示板、温泉土産などの工夫だ。どれも斬新で創造性豊かなのには驚いた。ローマに帰ってさっそくそのアイデアを採用した浴場を作ると、これがローマ市民に大人気で!」
「なるほど!実はこの建物の浴室にはあなたがまだ知らない工夫があるのです。」
「ほう!ぜひ見たい!案内してもらえるだろうか!」
「いいですとも。」
どんどん話を進めるカミュをミロがつつく。
「おい、どうするんだ?」
「ルシウスは湯や水に触れないと帰れない。ここでローマ帝国の政治状況や外交について実際のローマ人から聞きたいのは山々だが、妙に引き留めるようなことをして万が一にも帰れなくなったらまずいことになる。ともかく浴室につれてゆくのがよいだろう。湯のそばにいさえすれば、やがて時空転移が起こるものと思われる。」
「なるほど。」
食事を下げに来た美穂にルシウスと露天風呂に行く旨を告げてフロントに行き、15時からの家族風呂も予約した。露天風呂は一日中入れるが、準備の要る家族風呂の予約は15時から23時までとなっている。
「ではこれから浴室にご一緒しましょう。きっと参考になると思います。」
「それはありがたい。平たい顔族のセンスにはいつも感心しているのだ。ほんとに君達に会えてよかった!」
期待に燃えているルシウスが手を差し出してきた。ぎゅっと握ってきたローマ人の手の平は肉厚で暖かい。いままさに2000年前に生きている人間と握手していることに四人ともおおいに感銘を受けたのだった。