◇その37◇

昼下がりの露天風呂には誰もいない。連泊の泊り客は観光に出払っているし、今日到着予定の客のチェックインにはまだ早すぎるからだ。
「すると先程はまずここに現れたのですね?」
「そうだ。給湯管の修理をしているときに足を滑らせて水の中にもぐり、気が付いたらここに顔を出していた。いつものことだからもう驚きもしないが。」
現代人ならこの現象におおいに頭を悩ませて心療内科に通いかねないが、そこは神話がかなり根付いていた古代ローマに生きるルシウスである。あっさりと結論付けてストレスにはならないらしかった。
「そういえばかねてから疑問だったのだが、平たい顔族は奴隷は使っていないのか?一度も見かけたことがないが。」
これには一同が驚いた。

   奴隷っ!そんなものが日本にいるわけは…!
   そういえばローマ帝国には奴隷がいたような気がする
   たしか、ガリー船を必死で漕いでなかったか?

映画 「ベン・ハー」 を思い出したミロが連想したのは壮大なガリー船の戦闘シーンだ。船底で奴隷頭の打つリズムに合わせて力の限り櫂を漕ぐという苛酷な労働で、足首を鎖で繋がれている彼等はもし船が損傷を受けて沈んだら船もろとも海底に引きずり込まれて海の藻屑となる運命なのだ。エジプトのピラミッドも奴隷が建築したのかもしれないが、ローマの豪壮な大理石建造物もおそらく奴隷を酷使して作り上げたのではないだろうか。
「いや、ニホンには奴隷制度はない。平たい顔族はあらゆる職業を自分達でこなしている。」
「ほう!それは不便ではないのか?石材の運搬や重量船を漕いだりするのは大変な労働だ。優秀な平たい顔族が自らすることではないだろうに。そもそも浴場にも奴隷がいないというのは不便ではないのか?」
「え?」
カミュもローマ帝国に奴隷がいたことは知っているが、浴場における奴隷の役割については知っていない。
「ローマでは奴隷がストラジルで垢をこすりとってくれる。当たり前だ。」
「ストラジル?」
さすがにカミュといえどもそれがなんのことなのか想像もつかない。
「君達はよっぽど長い間帰国していないのだな。ストラジルとは金属でできた湾曲したへらのような道具で、垢をこすりとるための道具だ。」
「ほう!そんなものが!」
「自分の奴隷を連れて来る者もいるがたいていは浴場専属の奴隷に任せている。」
知識欲を刺激されたカミュは市民生活における奴隷の役割について細かいところまで問いただし、ルシウスが説明好きな性格だったこともあって満足いく成果を得たようだ。
「垢すりっていうか、平たい顔族はこんなのを使ってる。」
ミロが露天風呂の洗い場に置いてある軽石を取り上げた。いまどきの製品なので軽石単体ではなくてプラスチックの柄がついているハンディタイプだ。
「ふむ、これはどうやって使うのだ?」
手に取ったルシウスが腕をこすろうとしたので全員で、
「待った〜!」
と声を上げる。
「それはかかと限定だ。ほかの柔らかい皮膚をこすると、すりむけて大変だ。」
ミロが自分のかかとで実演してみせた。
「軽い力であっという間に踵がつるつるになる。平たい顔族は昔からこれを使っているらしい。」
「ほう!私にもやらせてくれ!」
好奇心いっぱいのルシウスは軽石がいたく気に入ったらしい。
「ふうむ、硬すぎず柔らかすぎず、いい具合だな。平たい顔族の知恵には恐れ入る。入浴にかける情熱と工夫はとても我がローマ帝国の及ぶところではないな。ハドリアヌス帝が派遣したという新総督が平たい顔族の技術をローマに持ち帰る日が待ち遠しい。」
そんな日が来ないことはわかりすぎるほどわかっているので、さすがにカミュは気がとがめてきた。
「この軽石というのは火山の近くで産出するはずです。ベスビオ火山にもきっとあるでしょう。加工が簡単なので穴を開けて紐で吊すこともできるし持ち手をつけることも可能です。この くらいの技術の導入なら新総督の判断を仰ぐまでもないでしょう。」
「なるほど!ベスビオ火山ならすぐにでも行ける。そういえばこんな石を見かけたことがあるな。」

(おい、そんなことを伝授して大丈夫か?歴史が変わったりしないか?)
(それなら大丈夫だ。2000年の間には木の部分は朽ちて軽石だけが残る。発掘されてもなんの支障もない)
(なるほど!)

なめらかなかかとを撫でて満足げなルシウスをこんどはカルディアが奥の打たせ湯に誘ったが、これも大ヒットだったようだ。 湯の中の石に座らせて肩に湯を当てるように教えると、細かいしぶきが音を立てて乱れ散る。
「なんと素晴らしい!ああ………長年の肩の凝りがみるみるほぐれていくようだ!」
感涙にむせんだらしいルシウスは感極まったらしい。
「私は今までなにをしていたのだろう!落下してくる湯にマッサージさせるとは!ローマでは奴隷にマッサージさせているというのに、こんな優れた方法を知っているから平たい顔族は奴隷を必要としないのだ。ああ……平たい顔族がかくも優秀では我がローマ帝国はいつか彼らに乗っ取られてしまうのではないだろ うか。」

   いや、それは絶対にないから!

カミュが言葉を尽くして、平たい顔族はきわめて穏健な民族でニホンという土地に満足しているからその可能性はまったくない、と強調したのでルシウスもやっと焦眉をひらくことができた。