◇その38◇

さて、いったん露天風呂から出て脱衣室のマッサージチェアや扇風機に興味を示すルシウスの気をなんとかしてそらそうと懸命になったミロが目を留めたのは足の裏のツボを押し て血行をよくするという木製のボードだ。
「そっちの大きい椅子みたいなやつや、ぐるぐる回って風を起こすものは平たい顔族の秘密道具で我々にはとても真似ができないが、これは簡単な作りですぐれものだぜ。とても健康にいい!」
正方形のボードには右足と左足の形が書いてあり、大小様々で高低のある先端の丸いスティックがたくさん取り付けてある。温泉地や銭湯でしばしば見かけるお馴染みの健康グッ ズだ。 足の裏が何色にも色分けされていて、それぞれの箇所に肝臓や腎臓などツボの名称が書いてあるのでますます複雑な様相を呈している。
「変な形だな?なにか呪術的なものか?」
「いや、そうじゃなくて。」
苦笑したミロが足型に合わせて乗ってみせた。体重がかかって足の裏にかなりの刺激が加わった。
「こんなふうにすると内臓や神経を刺激して健康にいいし血のめぐりもよくなるそうだ。ただしやりすぎは禁物だけど。」
「ほう!私もやらせてくれ!」
早速乗ってみたルシウスは、
「なるほど、これは効くな!ローマでも奴隷に全身のマッサージをさせているが、平たい顔族は奴隷がいないのでこうした道具を発明したのだな。打たせ湯といい、この足板といい、自分の力を使わないで効果を得るとはたいしたものだ。我々ももっと努力せねばならぬ。」
腕組みをしてうんうんと頷いたあとは山のように積んであるバスタオルにも目を留めて織り方に感心している。
「おい、カミュ、あの頃のローマ帝国って木綿はあったのか?それとも麻とか絹だけなのか?どんな繊維があったんだ?」
「ローマ人は主にウールを用いたと言われている。おそらくルシウスは木綿を知らないだろう。」
「湯上りにもウールを使うのか?いただけないな。」
「それを思うとタオルなどは夢の織物だ。」
「あ〜、俺って現代に生まれて幸せだよ。」
普段なにげなく使っている石鹸、タオル、シャンプーとリンス、それからシャワーに湯沸かし器など身の回りのあるとあらゆるものが自由に使えるありがたさといったらどうだろう。蘇生する前は衛生に関してルシウスとたいして変わらない生活をしていたカルディアとデジェルもあらためてそのことを思う。

みんなで浴衣を着こんでから脱衣室に用意されている冷たい麦茶を飲んでルシウスを感心させ、次は家族風呂に行った。このときにはルシウスに正しい浴衣の着付けを教えたので見た目は普通の外人だ。
この宿では毎週金曜日は花風呂になる。たいていはバラ風呂で、浴室への引き戸を開けると赤や黄色などの色彩の渦が目に飛び込んできた。
「あっ!」
ルシウスは驚愕のていである。
「どうして湯に花があるのだっ!?ここは……もしかして皇帝専用の特別な風呂ではあるまいな!!」
「いや、そうではなくて!」
デジェルが説明に努める。さっきから裸のつきあいが続いているのでもうなにも恥ずかしくない。 ローマで大勢と入浴するのに慣れきっているルシウスももちろんまったく気にしないので、でまるで日本人同士のようだ。
「私も最初は驚いた。七日に一回は湯に花を浮かべて楽しむのが平たい顔族の習慣だ。季節の花を使うので、ときどき種類が変わる。そのために専用の花を育てることもあるそう だ。」
「う〜む、平たい顔族はそこまでやるのか!」
ルシウスが勘に耐えかねたように唸った。
「さらに、花の少ない時期にはオレンジやレモンを浮かべて香りを楽しんだり、冬は風邪を引かないために薬効のある草を浮かべることもある。」
「なんとっ!ああ、そんなことは思いつかなかった!平たい顔族とはどこまで優れた民族なのだ!負けた!完全に負けた……!」
肩を落としたルシウスが気の毒になったのでみんなで元気づけようとバラ風呂に連れ込んだ。それでもバラに囲まれたルシウスは落ち込んでいる。よほどがっかりしたらしい。
「そうだ!景気づけに酒を頼もうぜ!あんなことはローマじゃ、できないだろう。平たい顔族のことを極めたいなら、あれは欠かせない。」
そう言って脱衣室から注文の電話をかけたミロが浴衣を羽織ってフロントに酒盆を取りに行っている間、残りの三人はローマ帝国の入浴事情や政治についてさりげなく、しかし熱心にルシウスに尋ね ておおいに収穫があった。 このチャンスを逃す手はないのだ。
「お待たせ!」
戻ってきたミロが湯の表面に銚子と盃の載った盆をそっと浮かべた。
「さあ、ルシウス、一杯やろう。お近づきになった印だ。」
「えっ?これはなんだ?まさか……酒かっ!」
「ニホンの地酒だ。昼飯のときに飲んだビールはほかの属州からニホンに伝えられたものだそうだが、この地酒は滅多なことでは飲めないぜ。ことによると現役のローマ市民でこれを 飲むのはルシウスが最初かも。」
「ほう!それはそれは!初物を口にすると寿命が75日伸びるというからな。いただこう。」
ルシウスが盆の上の盃を手に取った。
「なぜこんなに小さい?これではまるで赤子用だが?」
ローマ帝国の酒といえばワインに代表される。大きな角杯やグラスになみなみと注いで飲むのが通例だ。ルシウスの大きな手には日本の盃はいかにも小さい。
「ニホンの地酒はワインやビールとは違ってかなり強い。一度にたくさん飲むときついので、小さい器で飲むものだ。」
「ふむ、ところ変われば品変わるということだな。しかし湯に入りながら酒を飲むとは楽しみもここに極まれりだな。」
ぐいっとのんだルシウスはどうやら日本酒が気に入ったらしい。
「う〜ん、これはたまらんな。平たい顔族は酒造りの腕もいいのか。ますます皇帝陛下はお気に召すだろう。」
「ところでローマでは今どんな歌が流行っているんだ?聴かせてくれないか?」
カルディアが面白いことを言い出した。
「ああ、それはぜひ聴きたい!」
「私も聴きたい!」
ほどよく飲んだミロとデジェルも囃したて、それではとルシウスが渋い声で歌いだす。これこそ貴重な第一級の歴史資料だが録音できないのが悔やまれる。

   ああ、もったいない!
   なんとかして部屋に戻って録音したいが!

カミュが悩んでいると、やんややんやの喝采に気を良くしたルシウスが、
「よし!ローマの踊り子の最新流行の身振りを見せてやろう!」
と上機嫌で言って立ち上がろうとした途端、足を滑らせて転びかけた。
「あぶないっ!」
とっさに手を差し出したカミュがルシウスの腕をつかんだが、勢い余って二人とも湯の中に盛大に水しぶきをあげた。
「おい、大丈夫かっ!?」
ミロが声をかけた時には二人の姿は消えていた。