◇その39◇

水中でルシウスの下敷きになった格好のカミュが急いで体勢を立て直す。
「私なら大丈夫で……えっ?」
古めかしい壁面、見慣れない天井のテラコッタ、床材は古びた大理石で温泉の泉質のためかかなり変色している。耳の奥にはまだミロの声が残っているというのに、いま目の前にある光景はカミュを恐ろしい推測にかりたてた。
あわてて横を見ると、カミュと同じく頭からずぶ濡れのルシウスが立ち上がったところだった。
「あぁ、戻ってきたか。やはりローマはいいな。」
カミュがいることに気付いていないルシウスがざぶざぶと湯の中を歩いて上がろうとしたのであわてたカミュが声をかけた。
「ルシウス、あの…」
どぎまぎしながら呼ぶとルシウスが驚いたように振り返る。
「君も来たのか。ふ〜ん、私だけではなかったのだな。」
全然疑問を感じてないところはいかにもルシウスらしいのだが、カミュとしてはまだ混乱のさなかだ。瞬時に2000年前のローマに来てしまったことは疑いようがない。

   ともかくルシウスと離れてはならない!

ここはかなり古い浴場のようで高い位置にある窓から明るい昼の光が差し込んでいる。今は誰もいないが、どこからか人の声がするところをみると今にも誰かが入ってくるかもしれなかった。裸なのが気になるがこの際そんなことを気にかけている場合ではない。
「ローマに来てしまったのは驚きだが、服をどうすればいいだろう?裸ではどうしようもないが。」
いくらローマ人でも裸で街を歩いたりはしないはずだ。今現在もっとも重要な問題を解決しようと考えたカミュがルシウスに尋ねると、
「う〜ん、そうだな。ここはアリアス家の経営する浴場のようだ。去年修理したからよく知っている。私の家はそう遠くない。人に頼んで服を持って来させればいいだろう。 」
これはカミュにはありがたい話だ。
「私はローマには知り合いが一人もいないので、帰国できるまでの間、あなたと行動を共にしてもいいだろうか。」
頼みの綱はルシウスだけだ。いままでに何度も日本への時空転移を行っているルシウスからけっして離れてはならぬのだ。 ルシウスが嫌だと言ったら、カミュとしては平身低頭してでもそばについていたい心境だった。
「ああ、かまわないとも。」
気楽に答えるルシウスはなにも気にしていない。しかしカミュには考えなければならないことが山のようにあった。 服を着てルシウスと行動を共にするだけではまだ不十分過ぎた。

「うそだろっ!おい、カミュ!」
蒼白になったミロが息を飲む。時空転移が行われたのは明らかだ。ルシウスと一緒に消えたカミュは2000年前のローマに行ったのに違いない。
「そんなっ!どうする?!」
「戻ってこられるのか?」
カルディアの当然の疑問がミロを打ちのめす。
「だめだっ!そんなことを誰が信じるかっ!」
まだ波立っている水面をミロがめちゃめちゃにかき分ける。いないと分かっていてもそうせずにはいられないのだ。
「カミュがいないなんてありえない!カミュがいなきゃだめだ!どうして俺も連れて行かなかった?!いやだっ、俺はそんなことは認めないっ!」
顔を真っ赤にしたミロがわめいた。唇が震え、大きく見開いた眼は恐怖の色を浮かべている。
「落ち着いて、ミロ!なにかできることはないか考えよう!」
「2000年も離れているのにいったい何ができる!戻ってこないとすれば、カミュはとっくに死んでいるんだぞ!」
「ミロ…!」
沈黙が降りた。ミロも自分の口から出た恐ろしい推測に絶句する。みたびカミュを失うかもしれない恐怖に襲われて呼吸をするのが苦しくなった。カミュの痕跡を求めて目を懲らしても、透き通った湯の中にはなにもありはしない。カミュは跡形もなく消え失せていた。
「ともかく上がって離れで頭を冷やして考えよう。ここにいてもどうしようもない。」
顔をこわばらせたミロを励まして、五人で通ってきた廊下を今度は三人で戻って行った。動揺がおさまらないミロの表情は固く、カルディアとデジェルの心を痛ませる。

「信じたくないが事実は事実だ。ローマに行ったカミュがどんな行動を取るか考えよう。カミュもきっと、私たちにそれを考えてほしいはずだ。」
さすがに冷静なデジェルが口火を切った。ミロの動揺ぶりを見たカルディアは、もしもデジェルを失ったら、とそっちのほうに気がいって、あまり建設的なことは考え られないようだ。
「カミュがどうするっていっても……俺達が考えてもどうしようもあるまい。」
不安に押し潰されそうなのをこらえて、振り絞るような声でミロが言う。
「いや、カミュは未来にいるわけではない。私だったら、この時代に向けてメッセージを残そうとするだろう。」
「メッセージって……でもどうやって!?手紙を書いたって2000年も残るはずがない。」
「ええと、俺にもさっぱりわからんが、デジェル、お前ならどうするんだ?」
さそり座の二人はあまり実際的な思考には向いていないのかもしれない。いや、最愛の水瓶座を失うと混乱の極みに叩き込まれてしまうのかもしれなかった。
「ローマにはたくさんの遺跡が残っているのだろう?いまでも存在している遺跡のどこかに文字を刻んでおけばよい。私ならそうする。」
「遺跡!」
たしかに2000年前から変わらずに残っている遺跡は数多い。カミュならどんな遺跡が残っているかは熟知しているだろう。
「でも、あのカミュが遺跡に私用の文章を書くとは思えないが。文化財の保存には人一倍気を使ってるし。」
カミュが文化財の毀損や落書きを嫌うのはたいへんなもので、いつだったかイタリアのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に日本の学生が自分の名前を署名したのが発覚したときは、珍 しく感情的になって不快の念を表したのをミロはよく覚えている。 あのときは、その件を知った日本人がそろって謝罪の声をあげ、その学生が在学している大学が公式に謝罪し、なおかつ清掃の申し出をしたため、文化財への落書きには慣れっこに なっていたイタリア人をおおいに驚かせ、日本人の真面目さにあらためて感心したという経緯があるのだが。
「これまでのイタリア史をくつがえすようなことを書いてはいけないが、カミュがそんなことを書くはずがない。この場合は無事を知らせ、帰還に向けて努力していることを私たちに知らせるだけでよいのだからな。」
「でもどこの遺跡に?遺跡なんて山のようにある。まさかポンペイっ?」
火山の噴火で灰に埋もれたポンペイの遺跡を思い浮かべたミロが唸った。お互いをかばうようにして亡くなった恋人たちの姿が発掘されていて、その悲劇的な最期はあまりにも有名だ。
「いや、ポンペイの街は西暦79年に火山の灰に埋もれている。ハドリアヌス帝の在位は西暦117年から138年だから、カミュはポンペイの悲劇とは無関係だ。」
こんなことまですでに自分の知識にしているデジェルにミロは舌を巻く。
「それじゃ、いったいどこに?カミュはどの遺跡を選ぶんだ?」
「私なら、」
デジェルが言葉を切った。同じ水瓶座の選択はこうだった。
「コロッセウムだ。私なら誰もが知っているあの建造物にメッセージを残す。」
「コロッセウム!でもあれって、カミュがいる時代に完成してたのか?」
「工事は75年に始まり80年には使用が開始されている。ハドリアヌス帝の治世には問題なく存在している。」
「よし!探してみる価値はあるな!」
ミロに目標ができた。