◇その40◇

古代ローマの衣装のトーガは予想していたより重みがあるが、聖域でときおり着ていた長衣のヒマティオンと似ていてさほど違和感はない。
しかしながらカミュが戸惑ったのは下着だった。いや、この場合は下着がなかったといったほうが、より現実に近いかもしれない。 ルシウスが自宅から取ってこさせたのは厚手のトーガ一枚ずつで、下着に類するものはなかったのだから。
「今は夏だから面倒なので下着は省いている。着ても着なくても、たいして変わらないからな。」
カミュ的にはおおいに変わるのだが、古代ローマの常識には対抗できない。

   やむをえぬ
   下着といっても、トーガより丈の短いトゥニカを着るだけだし……
   ミロがいたらさぞかし騒ぐだろうが、郷に入っては郷に従えだ

いささか心もとないが、腹をくくったカミュは気にしないことにした。
そもそも裸でこの時代に来たことを思えば文句の言えた筋合いではない。万が一、この浴場がルシウスの家から遠かったとしたら、 あまり物事を気にかけないタイプのルシウスは、そこらの布を腰に巻き付けただけでうちまで歩こうと言いそうな気もする。それを思えばトーガになんの不足があろうか?いや、 ありはしない。
サンダル形式の履物も渡されたので感動しながら履いてみる。 だいぶくたびれているが、裸足に比べればありがたいことこの上ない。
しかし問題は濡れた髪だった。短髪のルシウスは気にもとめていないが、カミュは濡れた髪で外を歩き回ったことはないし、この時代に風邪を引いたりして体調を崩したりしたら、ただでさえ不安の残る帰還のチャンスがますます少なくなるだろう。

   べつに歴史を変えるわけではない
   髪を乾かすことを優先すべきだ

ルシウスのあとについて浴場を出るときに誰も見ていないタイミングを見計らって小宇宙で一気に髪を乾かすと、頭が軽くなりほっとした。 浴場の外に出て初めて見る町並みや道行く人の様子に目を見張っているとルシウスがカミュの髪に目を留めた。
「なぜ髪が乾いている?」
その問いに対する答えはすでに用意してある。ことさらに真面目な顔をしたカミュは重々しくこう言った。
「これは人に言ってもらっては困るのだが、平たい顔族に伝わる秘密の方法を伝授されている。彼等は私たちには及びもつかない知恵を持っているのだ。」
「ほう!さすがだな!そんなに長い髪では不便だろうと思っていたが、そういうことか。」
一人で納得したルシウスがうんうんと頷き、カミュはいささか後ろめたくなったが嘘も方便だと割り切ることにした。
これからどれほどの嘘をつかねばならないかと思うとため息が出るが、次の角を曲がった瞬間 視界に入ってきたものを見て罪の意識は完全に吹き飛ばされた。

   …コロッセウムだ!
   完全な形のコロッセウムを私は見ている!

あまりの衝撃にくらくらとめまいがするようだ。現代に残るコロッセウムは上部から斜めに壁の一部が切り取られていて不完全なものを見ることしかできないが、あれはローマ帝国が滅亡したはるかのちに誰の所有でもなくなっていた遺跡から採石場がわりに好き勝手に建材を切り取って自宅やインフラ整備に流用していた結果である。
しかし18世紀にローマ教皇ベネディクトゥス14世がコロッセウムを聖地として勝手な石材の持ち去りを禁じたため今の姿をとどめることになったのだ。 そのこと自体がすでに壮大な歴史の一ページといえるが、いまカミュの目の前にあるのは完成された美しさを誇る円形の闘技場だった。
「コロッセウムだ!素晴らしい!」
感激したカミュが嘆声を上げると、
「君も知っているのだな。あれは偉大なるローマ帝国の象徴だ。次の競技会のときには君にも見せてやろう。熱狂するぞ。」
「え…」
この偉大なるローマ帝国の遺産を壮麗な建築物としてしかとらえていなかったカミュは失念していたが、コロッセウムの本来の目的は血に飢えた猛獣と外征で捕らえてきた捕虜を闘わせるなどのイベントを催して市民に娯楽を提供することである。 皇帝にしかできない大規模な闘技会は市民の熱狂的な支持を受け、その治世を安定させる役割を果たす。ルシウスがハドリアヌス帝の指示を受けて設計した浴場もその多くが市民に無償で提供されていて皇帝の評判を高めるという目的を持っているのだった。

   早い話が殺戮だろう
   そんなものは見たくもないが、はたしてそれまでに帰れるだろうか?
   ミロはどんなに心配していることか

過去の歴史を目の前にして興奮していたカミュが今の自分の境遇にさすがに心細くなったとき、ルシウスに声をかけてきた人物がいた。
「よう、ルシウス!さっきお前のところにお偉いさんからの手紙を持った使者が来てたぜ。早く帰ったほうがいい。」
「おお、そうか。それでは急がないといけないな。」
「ふ〜ん、これはまた、えらい美形を連れてるな。いよいよ かみさんはあきらめてそっちのほうに鞍替えか?」
「とんでもない。私は男はやらぬ。彼は…ええと…」
平たい顔族やニホンのことを言ってはならないと考えたルシウスが言い淀んでいるので、相手は、やっぱりそうか、とにやりと笑っている。思いっきり誤解されているような気がしたカミュは、さっさと自己紹介をすることにした。
「私はカミュと言います。ルシウス技師とはちょっとした知り合いで、できれば浴場技師の仕事を教えていただきたいと思っているのです。」
「ほう!ルシウスの弟子に!俺はマルクス・ピエトラス、石工だ。よろしくな。」
マルクスが手を差し出してきた。石を扱っているのでごつごつした力強い手だ。
「石工というと彫刻もなさるのですか?」
「ああ、注文を受ければプリアポス神でもバッカスでも何でも彫るぜ。それからそんな丁寧なしゃべり方をしなくていいからな。なんだか調子が狂っちまう。」
これはカミュには難しい注文だ。教科書で習ったラテン語はどうやら堅苦しい言い方らしい。崩したくても文法が分からない。
一方ルシウスのほうは、カミュが弟子になりたいという話に驚いたらしい。
「君が弟子に?それは私のほうは構わないが、急な話だな。」
「突然ですがよろしくお願いします。ぜひ一緒に色々なことを学びたいのです。」
これから先、帰還のチャンスを逃さないためには常にルシウスと行動を共にせねばならず、そのためには浴場の設計や修理の仕事先にも同行することが必要だ。むろん毎日の入浴の時がもっとも時空転移の起こりそうなことは言うまでもない。

   できることなら、いつもルシウスと手をつないでいたいくらいだ
   絶対にチャンスを逃してはならない

こうしてカミュは師匠を持つことになった。