◇その41◇

「元老院議員のマリウス殿から新しい浴場の設計の依頼が来てる。さっそく平たい顔族の知恵を試すことができるな。まずはあの打たせ湯からだ。」
帰宅してすぐに届けられていた手紙を読んだルシウスは机の上に羊皮紙を広げると鳥の羽根の軸を斜めに切ったペンであれこれと図面を書き始めた。円筒形の陶器のインク壺もカミュには珍しくて、さりげなくインクの原料について尋ねると動物の骨や松を燃やして得られた煤を水で溶いたものらしい。
「平たい顔族はどんなインクを使っている?きっと優れているのだろうな?」
「彼らは昔は鉱物や植物からつくったインクを使っていたが、最近では技術が進んで地面の奥深くにある油からさまざまな色のインクを作り出しているらしい。」
「ほう!深い穴を掘る技術もあるのだな。崩れると危ないからそう深くは掘れまいが。」
ルシウスの考えている深さというのがどのくらいのものかは分からないが、現代では海底であれば7000メートルまで掘削が可能だ。人が地下に入って作業するケースでは、先年チリで起きた落盤事故で地下700メートルの坑道に閉じ込められた33名の作業員が69日後に全員救出されて世界を驚かせたのは記憶に新しい。そんなことを言おうものならローマ人の誇りを傷つけられたルシウスが再起不能になりかねないのでとても口には出せないが。
仕事熱心なルシウスは壁の上部から湯を落とす際の配管についてカミュの意見を聞き、カミュもローマの給湯事情を尋ねながら二人で楽しく設計を進めた。これは思ったよりも充実している時間でカミュ自身も予想外だった。

   ミロには申し訳ないが、見るもの聞くものすべてが面白い
   眠る時間も惜しいくらいだ
   帰るまでにできるだけ多くの知識を得たい

むろんカミュは帰れるものと考えている。そう思っていなければ精神が参ってしまうだろう。二千年先に生まれるミロはハドリアヌス帝の治世下ではまだ存在していない。そして、ミロの時代から見れば、カミュはとっくに死んでいるということになる。帰れなければの話だが。

   時空転移は必ず起こる  そうでなくてはならない
   私が巻き込まれたのはほんの偶然だ
   この間違いは訂正されなければならない

もちろんそのためにはルシウスのそばにいる努力が欠かせない。2000年の時を超えて日本の浴場に時空転移するというルシウス本人も意図していないこの稀な能力がこの先もずっと続くという保証はどこにもないのだ。建築の神が仕事熱心なルシウスへの褒美としてこの能力を与えたのだとしたら、彼が一通り日本の入浴事情を経験した段階で時空転移が起こらなくなる可能性もある。

   もしも私たちのところに来たのが最後の時空転移だったとしたら?

望ましくない可能性を考えて唇を噛んだカミュが設計図面を睨んだ。
その場合はローマに骨を埋めることになる。冗談でなく発掘の対象になるというわけだ。カミュの脳裏にポンペイの遺跡を歩きまわる観光客の姿が浮かんだ。

   私は必ず戻る! 戻らずにおくものか!

頬を紅潮させたカミュの前でルシウスが二枚目の羊皮紙に直線を引き始めた。


ミロとしてはすぐさまコロッセウムに急行したいところだが、なんの目標もなく闇雲にテレポートするのは危険極まりない。目標を誤ってトレビの泉のそばで観光客に激突して悲惨な事故を引き起こすのはまっぴらごめんだ。
「もっとも早いのはいったん天蠍宮にテレポートしてから地道に飛行機でローマ入りすることだな。アテネから一時間くらいでつくはずだ。」
しかしカルディアにはその手は使えない。
「俺は飛行機で行くしかないから、合流するまでにかなり時間がかかる。カミュがすぐに戻ってくる可能性も考えて、ここに残っていたほうがいいか?」
日本に来たときのカルディアは容態が悪化していたため完璧な医療機器とスタッフに見守られながらチャーター機で来日という厳重体制だったが、移植が成功して普通に日常生活を送っている今は海外旅行も医師から許可を得ている状況だ。しかしデジェルは首を振る。
「カルディアを一人にするのは不安があるので私と一緒に航空機で行くほうがよいだろう。ミロだけ先に現地に行ってくれるか?」
「わかった。向こうで探しながら待っている。なにしろ相手はコロッセウムだ、探し甲斐がある。2000年の間にはかなり風化しているだろうし、すぐに見つかるとは限らない。むろんそれを考慮したカミュは何箇所かに連絡文を彫り込んでおくはずだ。」
漫然と待っているよりは行動していたほうがどれほど心が休まるだろう。座して待つことなど聖闘士には苦痛でしかない。
しかし、勇み立つミロにデジェルが忠告をする。
「カミュの残したメモをうまく見つけたからといって、それでカミュの帰還が早まるわけではない。あくまでも私たちの安心のためだ。次の時空転移はローマ時間の翌日かもしれないし一ヶ月後かもしれない。さらに、三日後に時空転移があったとしても現代に到着する日時がこちらの時間の三日後とも限らないだろう。論理がわからないので、あちらでは三日後に時空転移が起こったとしても、こちらでは半年経っているということも考えられる。ともかく不確定要素が多すぎる。」
「う〜〜ん、そいつは…」
デジェルの冷静な推測がミロを唸らせる。カミュのローマ三日間滞在は不安よりも興奮が勝つだろうが、半年もこの状態が続いたらミロは憔悴して鬱病になりかねない。
「その反対にカミュが半年もローマに留め置かれて、いざ帰ってきたのが我々の時間の明日ということもあるかも知れぬ。」
「その場合にはカミュが究極の悲観論者になっていそうだ。それとも開き直って生粋のローマ人になりかかってるとか? いずれにしても帰ってくることを前提にした話だから、そうでない場合よりもはるかにましだが。」
いくら前向きに考えようとしても、帰還できずに終わるという絶望的な運命がつい頭をもたげてきてミロは沈痛な面持ちになる。しかし、そういう悲観的な話はカルディアには向かない。

   さそり座は攻めだ!
   落ち込んでるなんて、らしくないぜ!

「ここでそんなことを考えて暗くなっても意味ないだろうが。すべては仮定の話だ。ともかくコロッセウムに行ってみよう。カミュがメッセージを残していればもう2000年もあそこの壁に残っているんだからな。ギネス級の超クラシカルな掲示板だ。俺たちより先に観光客や学者がさんざん目にしてるんだろう?きっと俺たちにも発見されやすい所に書いてあるはずだぜ。」
カルディアの掲示板という発想がミロには意外でちょっと口元がほころんだ。そうだ、今のミロには笑いが必要なのだ。

   暗くなるなよ!
   カミュもそんなことは望んじゃいない! もう一押しだな

「じゃあ、俺とデジェルはだいぶ遅れると思うがローマで会おうぜ。俺たちに遠慮せずに先に見つけてくれていいからな。カミュからお前への遥かな時を超えたラブレターだろ。」
「えっ……それは…」
カルディアに思わぬことを言われたミロが思わず頬を染めた。考えもしなかったがそういう見方もあるのだ。思いつめていた心が少しほぐれたような気もする。
いつ戻るかわからないのでとりあえず帰ってくる日は未定ということでフロントに電話をしたミロがさっそく聖域に跳んで行った。
「では我々もイタリアに向かおう。」
「まったく突然だな。こんな理由で日本を離れるとは思わなかった。俺がテレポートできたら簡単なんだが。」
「どちらにしてもコロッセウムで合流できる。 " omnes viae Romam ducunt " すべての道はローマに通ず、ということだ。まったく格言通りの成り行きだな。」
「ルシウスとはなんとか思い出せる限りのラテン語で話したが、カミュのやつ、今頃は本格的なラテン語の世界にいるんだぜ。俺だったら頭が痛くなる。万が一、ハドリアヌス帝なんかと会っても最上級の敬語なんてしゃべれない。気がつかないうちに無礼なことを言って、最高権力者の機嫌を損ねて牢に入れられたりしたらどうすりゃいいんだ?」
「カミュなら大丈夫だろう。……たぶんだが。」
デジェルがてきぱきと荷物をまとめ始めた。パスポートはもちろんだが、忘れてはならないのはカルディアの薬だ。イタリア滞在がどのくらいになるかわからないので余分に持ったほうがいい。
「ルシウスがハドリアヌス帝に呼び出されないことを願うよ。カミュはルシウスと一緒に行動するだろうから、妙に気に入られて側近なんかに取り立てられてもまずいからな。ほら、お前ほどじゃないけどあいつも相当な美形だし。」
「え?」

   たしかハドリアヌス帝には若い愛人のアンティノウスがいたはずだ
   たいそうなお気に入りだったがナイル川に落ちて亡くなり、
   悲嘆に暮れた皇帝は彼を神格化して帝国各地に彼の彫像を作らせたという

   カミュが行った時代にアンティノウスがいれば問題はないが、
   もし彼の死の悲しみを癒そうとした皇帝がカミュを手元に置きたがったら?

ローマ帝国の皇帝の権力は絶対だ。その意に逆らうものは反逆者とみなされるのではあるまいか。
恐ろしい予測がデジェルを蒼ざめさせる。この場にミロがいないのは幸いだった。
「そんなことはないと思うが、念のためそれはミロには言わないほうがいい。余計なことに気を回す必要はないからな。」
「ああ、わかってる。」
厳しい表情の二人は手荷物を提げて離れを後にした。