◇その42◇

ルシウスの家にも奴隷がいて食事や掃除を受け持っていることがカミュには驚きだったが、そのうちにこの感覚にも慣れてきた。
奴隷だと思うからいけないので、使用人と考えれば別に不都合はない。ローマ市民とは権利や義務が異なるが日常生活の上で特に差別を受けているようには見えないし、卑屈な態度でもない。ルシウスもごく普通に接していて、身分を知らされていなければカミュもごく普通の使用人と思ったことだろう。
ローマに来た当初は自分の身分証明ができないために奴隷と誤解されてしまうのではないかとひそかに恐れていたが、れっきとしたローマ市民でハドリアヌス帝から直接仕事を依頼されることもあるルシウスと一緒にいるためか、誰もカミュの身分を疑う者はいなかった。
「君が奴隷? 誰もそんなことを思うはずがない。立ち居振る舞いを見ればわかるし、どちらかといえば高貴な生まれだろうと思うのが普通だろうな。話し方も今風に崩れたりしていなくて格調高い。」
「それならよかった。ちょっと心配をしたので。」
仔細に観察していると、奴隷をつれて歩いている市民がかなりいる。富裕層だと二人か三人連れていることもあるようだ。
「ローマにはたくさんの奴隷がいる。たぶん市民の数より多いだろう。」
「ほう、そんなに。」
そんなことを話しながら行く公衆浴場は現代でいうところのスポーツジムに該当するようだ。
ローマ市民は僅かの料金で利用でき、スポーツ後にマッサージで身体をほぐし、サウナにプールもあるという至れり尽くせりの設備である。
文献で知ってはいたが、いざ実際に利用するという稀有な体験にカミュは興奮せずにいられない。要領がまるっきりわからないのでルシウスの後について行きながら素知らぬ顔で真似をする。なにしろ、いつどこでルシウスが水を浴びる羽目になるのか皆目見当がつかないので、それこそ影のようについて歩くことになる。

昨夜は鶏肉と葱のオリーブオイル炒めとパンという簡単な食事をしながらルシウスといろいろな話をした。ローマの政治経済や市民生活の話が多かったが、なんといっても大事なのはこれからのことだ。
「私はなんとしてでもニホンに戻りたいので、御迷惑だろうけれども浴場技師の見習いをしながら常に一緒に行動させてもらいたいのだが。」
「ああ、かまわないとも。ニホンのことは公にはなっていないのだから、航路も開かれていないだろうし街道も未整備だろう。私としては優秀な君にいつまでいてもらってもいいのだが、ニホンでは君の妻が待っているとか?」
「えっ、あの、それは……恋人はいる。」
ミロのことを恋人だと公言したことはなく、カミュはほのかな明かりの下で頬を染めた。
「そうか、そうか、それなら早く帰ってやらないとな。あまり長い間ほうっておくと浮気をされたら一大事だ。」
「いや……彼女は浮気はしないだろうと思う。」
浮気どころか自分がいなくなってからのミロがどれほど心配しているかと思うとカミュの胸がちくりと痛む。
「貞淑な女性なのだな。君だから言うが私の妻は……」
仕事で地方に行き三年留守にしていた間にルシウスの妻が独り寝に耐えかねて浮気をしてしまった話を延々と聞かされる羽目になり、その手の話にこれまで縁がなかったカミュは相槌の打ち方がわからず当惑しながら頷いてばかりいたので、ワインの酔いのせいもあってルシウスの舌はますます滑らかになった。男女のことに疎いカミュには驚天動地の話も出たようだが、そこは暗い灯火が幸いしてなんとか乗り切った。ローマの暮らしは刺激が多い。

ルシウスには友達が多いようでジムでも浴場でも何人もが声をかけてくる。そのたびにルシウスはカミュを紹介し、挨拶をしながら何人と握手をしたかわからない。
生粋のローマ人でないのは一目でわかるので誰もが出自を聞いてくるのに辟易したカミュは、「ガリアのほうから来ました。」 と答えることにした。ローマ帝国の時代には今のフランスはガリアと呼ばれていたのは周知のことだ。幸い、同郷を名乗る者はおらず、カミュをほっとさせた。「ガリアのどこですか?」 と訊かれたらことである。
浴場ではむろん裸だ。ミロなら真っ赤になってカミュを見せまいとするだろうが、あいにくここにはミロはいない。といってローマ市民はみんなが裸になって入浴するのに慣れきっているので誰もカミュに注目することはない。こんな習慣のあるのはローマ帝国と21世紀の日本だけだと思うと、その不思議な縁にカミュは笑いがこみ上げてくる。
知識として知っていた垢すりの道具のストリジルもむろん経験をした。身体にオイルを塗ってからサウナで発汗させ、そのあとでマッサージルームの台に寝そべっていると専属の奴隷がほどよく湾曲したストリジルを使ってオイルをそぎ落とすようにこすって垢を落としていくのである。
恥ずかしいなどという感情は吹き飛んで、カミュは感動と興奮でぞくぞくする。いったい誰がこんな体験をするだろう。万が一帰れなくてもそれをかなり埋め合わせる貴重な経験が得られるのは間違いない。

   むろん、帰りたい!帰らねばならぬ!
   しかし、ああ、ローマ! 私はいま古代ローマにいるのだ!

遠く近くに聞こえてくるのは湯の音とラテン語のざわめきだ。書物の中にしか存在していなかったラテン語を生きて操る人々の真っただ中でカミュは奇妙な高揚を覚えていた。

入浴後は付属の食堂でかなり贅沢な食事が無料で提供されているし、市民には穀物の配給もある。いずれも征服した土地から絞りとった富のなせるわざで、市民の人気とりを狙った皇帝や貴族が惜しげもなくばらまいた結果だ。話には聞いていたものの、現実として見るカミュは驚くばかりだ。一般市民でこうなら富裕層の貴族や皇帝はどれほどの贅沢をしていることだろう。
「だから平たい顔族はすごいのだ。ローマにかなりの税金を納めているはずなのに、あれだけの素晴らしい暮らしができているのだからな。それにしてもあそこの酒は美味かったな。」
ルシウスが羨ましがるのは無理もない。いくら贅沢なローマでもワインの冷蔵保存はできないので時間がたつとどんどん酸っぱくなるのである。
「だからたいていは水で薄めて飲む。それが平たい顔族は冷たくして保存できるというではないか!ああ、ほんとに素晴らしい技術だ!果物もヌードルも美味しいし!」
なんのことかとカミュが聞いてみると、どうやらルシウスは以前の時空転移でバナナやラーメンを食べたらしい。カミュたちとはカレーライスを食べているのでなかなか豊かな食体験だ。

ローマに来てそろそろ街の様子も飲み込めた三日目の夜、飲み疲れてしゃべり疲れたルシウスがぐっすりと眠り込んだ深更にカミュがそっと起き出した。音をたてずにサンダルを履き、門口近くで寝ている奴隷を起こさぬように気を使いながら外に出る。
まったく大気汚染のないローマの空には満月が皓々と輝き、満天に輝く星の光も月のそばでは目立たない。二千年前の星座の位置が現代とは違っていてそれもカミュを感動させる。しかし今夜の目的はそれではない。
あたりに人の気配のないことを確かめたカミュは物音一つしない静寂の中を東を指して歩き始めた。角を曲がると正面にローマ帝国の偉大な遺産、いや、この時には現役の建造物であるコロッセウムが見えてきた。
竣工からたかだか五十年ほどしかたっていないコロッセウムはどこもかしこも美しい。欠損している箇所などあろうはずもなく、完璧なデザインが月の光に映えている。
むろん無人ではなかった。闘技会のある日には大勢の市民を迎え入れる入口には一個部隊が警備にあたっているし、それとは別に二十人ほどの部隊が周囲の巡回を続けていて警備は厳重だ。しかしカミュにとってはなんの障害でもない。
兵には姿を見せることなく路地の暗がりからコロッセウムの三階の開口部にテレポートすると足音を忍ばせて奥へと進む。以前ミロと訪ねたときには廃墟と化していたコロッセウムも今はすべてが整ってまるで別の場所のようだ。
切り出されたばかりの壁は滑らかで通路にはモザイク模様が施されているのがわかりカミュは興奮を抑えきれない。けれども詳細を記録する手段もなければ、無事に帰ったとしても発表することもできぬのだ。

   それはそれでジレンマかもしれぬ
   このことを話せるのもほんのわずかの人数に限られるのが口惜しい

内心で悔しく思いながら内側の闘技場を見渡せるところまで来るとさすがにカミュが息を飲んだ。そこには現代のコロッセウムとはまるで違う光景が広がっていた。
広大な闘技場を見下ろすように整然とつくられた観客席は5万人は収容できるだろう。現代では想像することしかできない向こう正面の中央席には皇帝が臨席するとおぼしき区画があって手すりや天蓋が設けられているのが遠目にもわかる。十人ほどの兵士が身じろぎもせず警備にあたっているのが見えた。鎧兜が月の光に鈍く光っていてその存在を知らしめる。
現代ではすっかり露出している闘技場の床部分の地下室や通路はすっかり石材で覆われていて表面には分厚く砂がかぶせられていた。血で血を洗う闘技が行われたあとは汚れた砂を入れ替えてまたもとの状態に戻すのだろう。平坦に整えられた砂の表面を月が隈なく照らし、惨劇が行われた気配はまるでない。

   このコロッセウムは生きている
   遺跡でも廃墟でもないローマ帝国の象徴を私は見ているのだ

眼前に広がる事実に圧倒されながら上を見上げると、記録にあるとおりに日よけの布が中央に向かって引き出される装置が見えた。推測にしか過ぎなかった仕組みがいまカミュの目の前にある。

   あれが実際に動かされるところをぜひ見たい!
   しかし、そのためには大規模な殺戮を見ることになるがどうしたものか……

市民に娯楽を与えるためだけに闘わされて死んでゆく多数の人々を平気な顔で見ている自信はカミュにはない。
決心のつかぬままそっと通路のほうに戻り、二千年後も存在しているはずの壁の見当をつけると懐から鑿 (のみ) と槌を取りだした。これは石工のマルクスから適当な理由をつけて古い道具を借り受けておいたのである。
「ここがよかろう。」
月の光の当たっているあまり目立たない隅の壁の下方に鑿を当てると、なるべく音をたてぬように慎重に彫ってゆく。二千年後にミロが読んでくれることを祈って残しておくメッセージだ。
針の落ちる音さえ聞こえそうな静寂の中で文字を彫るのは神経を使う作業だ。ときどき巡回してくる警備兵の気配を気にしながらの慣れない作業で時間ばかりかかり、やっと最初の一文字を彫り終えようとした時、突然の殺気がカミュを襲った。


                         



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