◇その43◇

凄まじい殺気にはっと身構えた瞬間、激しい衝撃波に襲われて全身を壁に叩きつけられる。距離が近かったため打撲で済んだと思ったとき、一抱えもある天井の飾り石が落下してカミュの左肩をしたたかに打ち、激痛が走った。
「うっ…!」
うずくまったカミュの前に立ちはだかった黒い影が、
「貴様、聖闘士だな。いいところで会った。命はないものと思え!」
低く嗤うと殺気をみなぎらせた。
これはカミュもまったく予想しないことで咄嗟の対応が遅れたのも無理はない。敵がいるはずもないと思い込んでいたこの世界で、聖闘士と見抜かれて襲われるとは予想外の出来事だ。
さらに、ローマに来てからのカミュは歴史を変えてはならぬという一念が強く、たとえ目の前で人が不慮の事故に遭おうとも助けてはならぬと心に決めている。その時は善行をしたようでも、死ぬべき人を助けたことが二千年の間にどのような結果を生むか、考えるだに恐ろしい。ミロが生まれなくなるという可能性もあり得るし、聖域の存在にも影響しかねない。
ゆえにこの場合も、反撃するかどうか一瞬の迷いが生じた。恐るべき一撃が空間を切り裂いた時やっと数メートル先にテレポートしたが、肩の怪我は思ったよりもひどくそれ以上の移動は困難だった。
「どうした、それだけか?手ごたえがないのもつまらぬな。まあいい、コロッセウムを貴様の血で染めてやろう。」
圧倒的優位に立った男の嘲笑がカミュを追い詰める。かつて一度でもこのような窮地に陥ったことがあったろうか。
自分が殺されようという瀬戸際になってもカミュは迷う。この男を凍気で殺せば歴史が変わってしまう恐れがあった。ここで自分が死ぬほうが正しいのではないだろうかとの逡巡がある。たとえ片足を凍りつかせるだけにとどめたとしても、それが歴史に作用しないという保証はないのだ。
そして、仮にこの男を倒したとしても肩の傷はこの時代の医学では完治せぬことは明白で、もし敗血症にでもなれば帰還のチャンスが来る前に死んでいる可能性すらあった。酷い痛みと出血で動きもならず、刹那の思いだけが妙に鮮明になる。

   ミロ……もうだめかもしれぬ………私は…

脳裏にミロの姿が浮かんだとき、暗がりの中にいた男が月光の中に歩み出した。黒光りのする重厚な鎧を着ていて背には翼のようなものが見えている。

   これは………まさか…

「死ね!」
しかし、凄絶な気合いが放たれた瞬間にカミュの前に立ちふさがった人物がいる。強大な衝撃波を片手で撥ね飛ばすと恐れ気もなく男にずいと近寄った。
「もう逃がさないぜ。今度こそ俺の獲物になってくれるんだろうな。」
はっと見上げたカミュの目の前で金の蠍の尾が揺れた。
「ミロ!」
思わず叫んだとき、異変を聞きつけたコロッセウムの警備兵の一隊が現れた。
「何者だっ!」
しかし彼らの足はぴたっと止まってしまった。見たこともない黒い奇怪な鎧の偉丈夫と神々しいほどに煌めく金の鎧の人物がいたのだから無理もない。声にならない動揺がさざ波のように広がってゆく。
「邪魔が入ったか。勝負はお預けだな。そいつの命はお前にくれてやろう。」
黒い鎧の男がそう言い残して消えた。目の前に見た怪異に剣を構えた兵士たちがあとずさる。
「こちらも引き上げるか。おい、立てるか?」
しかしすでにカミュの意識はなかった。ぐったりとした身体をやすやすと引き起こした金の鎧の男も姿を消し、兵士たちが顔を見合わせた。

「アリエスを呼んでくれ!怪我人だ!」
森閑とした真夜中の教皇の間に現れたのはスコーピオンだ。たった一つ灯っていた明かりの下に抱きかかえていたカミュを下ろすと手早く傷をあらためる。
「どうしたのだ?これは誰だ?」
すぐにやってきたのはジェミニだ。
「よくわからんが、冥闘士を追っている途中でやつに殺されかけるところを見つけて助けた。驚いたことに小宇宙を持っている。それも黄金並みの強大なやつだ。」
「なんだと?」
そこへ呼ばれたアリエスが現れた。
「この男を診てやってくれ。左肩にひどい傷がある。」
頷いたアリエスが露わになった傷に手掌をかざす。淡い金色の小宇宙に照らし出されるのは無残に砕けた鎖骨、断裂した腱、断ち切られた神経と血管だ。少し眉をひそめたアリエスがこれらの損傷を修復していく手際は鮮やかで、わかってはいるものの、スコーピオンとジェミニを唸らせた。
「終わりました。で、これは誰です?」
「それが わからんのだ。」
「え?」
アリエスが目をみはった。素姓の知れない人間を治癒したことはない。スコーピオンがカミュの肩を軽くたたく。
「おい、起きろ。」
しかしカミュは目覚めない。意識を回復させるのはアリエスの仕事ではないのだ。
「頭でも打ったかな?さほど出血してないから大丈夫のはずだが。」
「ではピスケスに気付けのバラを頼もう。それから在宮の黄金を集めてくれ。皆の意見が聞きたい。」
ジェミニの指示にすぐに黄金たちが集まってきた。灯りがふやされた中でピスケスが持ってきた白薔薇をカミュにかがせるとすぐに瞳が開かれた。
「あ……ここは…」
カミュは混乱した。あまりにもよく知っている教皇の間にいることはわかる。一瞬は元の時代に戻れたのだと思ったが、それにしては何かが違う。自分を覗き込んでいるジェミニやアリエスやピスケスの聖衣は見慣れたものだったが、それを纏っている人が違っていた。
「どうして……なぜ…」
現実と希望が交錯して胸が詰まる。ついさっきまで目の前にいた冥闘士のラダマンティスはどうしたのだろう。そしてあの蠍の尾は………
「君は誰だ?なぜ小宇宙を持っている?」
落ち着いた声が聞こえてカミュははっと我に返った。
「あの…私は……」
「もう怪我は治っている。起きたまえ。君の小宇宙は明らかに我々と同じレベルだ。誰かにひそかについて修行をしていたのか?」
差しのべられたジェミニの手をぐっと握って立ち上がるとほとんどの黄金がそこにいた。むろん蠍座もいたが、ミロではない。

   明らかに聖域だ
   考えもしなかったが、二千年前にも聖域が存在しているのは当然だ
   私はこの黄金たちの系譜を継いでいるのだ

「私は……」
素直に話すべきか逡巡したのも当然だ。二千年先の未来から来たことを信じてもらえるかどうかも疑問だし、この時代に未来という概念があるかどうかも判然とせぬ。だいいちそれを話すことで歴史が変わるのではないかという危惧がある。
二千年の時を隔てた教皇の間の緊張した空気がひしひしと身を包み、カミュは答えに窮した。