◇その44◇

警戒されているのはわかったが敵とみなされているのではなさそうだ。そもそも敵と思っているのなら聖域の、それも教皇の間まで連れて来はすまい。
「まず……傷の治療をしていただいたことにお礼を申し上げます。」
すぐそばにいた白羊宮の聖闘士にそう言うと相手はかなり驚いたらしい。カミュとしてはごく自然にそう思ったのだが、考えてみればまったくの部外者がアリエスの治癒能力を知るはずもないのだ。
「……なぜ彼が治したことがわかる?」
スコーピオンの当然の疑問にみんなが頷いた。しかし、それに答えること自体がカミュには不安だ。言わないほうが良かったかとも思うが、知らぬ顔はできぬし、ましてや治癒者に心当たりがあるのに、誰が治してくれたのか、と尋ねることも欺瞞だろう。
「それは……まだお答えすることが出来かねるのですが。」
しかしこんな曖昧な答えでスコーピオンが納得できるはずはない。
「意味がわからんな。なぜ答えられない?アリエスの能力を噂で聞いたのか?そんな噂があること自体、信じられないし、そもそもこの人数の中で彼がアリエスだとどうしてわかる?」
自分をここに連れてきてくれたに違いないスコーピオンから疑惑の目を向けられることがカミュには痛い。そういえば水瓶座の聖闘士がどこにいるのかカミュにはよく見えなかった。広い空間にほんの幾つかの燈心しかない教皇の間は薄暗く、なんとか聖衣の見極めがつくのは手前にいる黄金だけだ。
「コロッセウムに冥闘士がいたということは聖戦が間近ということでしょうか?それならばアテナはおいでになられますか?」
「コロッセウムだとっ!?」
神であるアテナになら説明しても許容されると考えたカミュがそう言うと黄金たちに動揺が走った。
「そんな街中に冥闘士がいたのか?それは聞いていないが。」
ジェミニが眉を上げた。新来者がアテナの名を知っていることも驚きだが、冥闘士のこともおおいに気になるらしい。この問いに答えるのはもちろんスコーピオンだ。
「まだ言う暇がなかったな。ラダマンティスの奴を追ってコロッセウムに来たところでこの男を見つけた。奴にやられる寸前だったので、これだけの小宇宙を持っている人間を殺させるのはもったいないと思った。」
「ラダマンティスだとっ!」
一同の間にどよめきが走る。怒りの小宇宙が高まったのがカミュにははっきりとわかる。
「一気にけりをつけたかったが、ローマの兵士たちと鉢合わせをしたんでその場はあきらめた。巻き添えを喰わせるわけにはいかないからな。目撃されたから今頃はまた神扱いだろう。」
また、と言うところを見ると、黄金の姿をついうっかり目撃されて神の降臨だと思われることはしばしばあるのだろう。現代ではとても考えられないことで、こんな状況にもかかわらずカミュはこの時代の感覚に感銘を受ける。
それにしてもジェミニは不思議でならない。

   なぜ冥闘士のことを知っている?
   しかもそのことが聖戦を意味し、
   さらにアテナの存在と結び付けて考えられるこの男はいったい何者だ?

黄金ではないのにそれに匹敵する小宇宙を持つ人間がいるなどとは訊いたこともない。
「アテナの所在を聞いてどうするのだ?」
「おいでであれば、まずアテナにお目にかかって事情をご説明申し上げるのが妥当であると考えます。御一同に説明できるかどうかはアテナの判断を待ちたいのです。」
「どこの誰ともわからぬ者をアテナに会わせることはできない。それに……」
ジェミニが黙った。ほかの黄金も一様に押し黙ってしまうのがなぜか不自然だ。そのとき一同の中から声がした。
「アテナには誰も会えぬ。」
ジェミニの後ろから現れたのはたしかにバルゴの聖闘士だ。
「私の見るところ、君の存在は正義だ。君の小宇宙には一点の曇りもない。しかし残念ながらアテナには会えない。君だけではない、我々の誰も会うことはできないのだ。」
「なぜでしょう?降臨なさっているのになぜ?」
カミュが教皇の間の奥に視線をやったので、アテナ神殿の所在も知っているのかと一同は奇異に思う。ますますカミュの素姓がわからなくなってきたらしい。
「私が話しても異存はあるまいな。」
とほかの黄金に念押ししたバルゴが事情を説明し始めた。
「一か月前に聖域はラダマンティス率いる冥界軍の奇襲に遭った。あいにく我々のほとんどが別の数箇所で冥界の先鋒と闘っており、聖域が手薄になっているその隙を突かれたのだ。急を聞いて戻ってきたときにはすでに遅く、神殿の奥に籠もったアテナと教皇をただ一人で守護していた聖闘士が内側から強力な結界を張ったあとで、あまりの強靭さに我々の誰にも破ることができないのだ。」
「えっ…」

   その聖闘士とは誰だろう?
   この場にいない その聖闘士とは?

「ラダマンティスの攻撃が激烈すぎてそうするよりほかはなかったのだろう。その結界を破らぬ限り誰もアテナには会えぬ。中からも破れないところを見ると、おそらく中の三人も意識はないのだろう。弱い小宇宙はまだ感じられるが自力では抜け出せない状態にある。」
聖戦は間近どころか今まさに白熱した闘いが繰り広げられていた。
この驚くべき話にカミュはアテナ神殿に意識を集中させた。十二宮のもっとも最深部の教皇の間のそのまた奥にあるアテナ神殿は静謐な空間で滅多なことでは立ち入ることは許されない。
バルゴの話を聞いたカミュが分厚い扉の奥をあらためて探ってみるとほんのわずか漏れ出てくる小宇宙が感じられた。

   これは……!

「君にも事情があるらしいが、誰もアテナには会えない。では、あらためて訊こう。君は何者だ?我々の側は十分すぎるほど説明をした。今度は君の番だ。」
「それは……それでもアテナでなければ話すことはできない。」

   できるものなら、私はあなた方の黄金の流れを汲む者だと説明をしたい!
   人の世に未来があることを伝えて、
   はるか昔の黄金たちと心を通わせられたらどんなによいだろう!

しかしそれはできない相談だ。
「なぜだっ!ここに来たこともないのに俺たちのことをよく知っているのはなぜだ!?どこで小宇宙を習得した?バルゴがなんと言おうと、やはり冥界の回し者じゃないのかっ!?」
一向に埒の開かない問答に業を煮やしたスコーピオンがいきなり攻撃的小宇宙を燃え上がらせた。
「そんなにのんびりと待っている暇はない!アテナが復活しなければ地上の命運は尽きるのだ!いったいお前は何者だ!」
激昂したスコーピオンがカミュの肩をつかんだ。まるでアンタレスを撃ち込みかねない勢いに思わずカミュもおのれの小宇宙を高めることになった。
「あっ…!」
驚愕の表情を浮かべたスコーピオンが手を離して後ずさる。
「凍気だっ!どうして…」
カミュの周りに見るも明らかな凍気が立ち上り冷涼な気が教皇の間に広がった。