◇その45◇

「素性は問わない!お前の存在は正義だとバルゴも言っている!凍気を扱えるのなら、あの結界をなんとかしてくれ!俺たちでは歯が立たない!」
一転して闘気を収めたスコーピオンがほとばしる語気で言った。
「えっ!でも私は…」
しかし、スコーピオンはカミュの言葉など一顧だにしない。
「かまわんだろうな、ジェミニ!」
みながジェミニを見つめる。教皇がいない今、聖域のリーダーシップをとっているのはジェミニの聖闘士らしかった。
「ふむ……よかろう。手をこまねいていては何も進まない。なぜかはわからないが、彼にはこれだけ我々のことを知られているのだ。なんらかの形で聖域と関わりのある者に違いない。」
頷いたジェミニが 教皇の玉座の後ろの扉を押し開けた。夏だというのにさっと冷気が流れ込み、その尋常ならざる冷たさがカミュに結界がアクエリアスの手になるものであるこ とを確信させる。凍気によって作られた結界を解くには同じく凍気をもってせねばならないのだ。
「さあ、来てくれ!アテナに会いたいなら、その実力を見せてもらおうか!」
はやるスコーピオンにぐっと手を掴まれたカミュは抵抗する間もあらばこそ、白々とした月光に照らされた白亜のアテナ神殿に連れ込まれた。 ジェミニほかの黄金が粛々とあとに続き、やがて正面に氷に閉ざされた場所が見えてきた。
「あれだ。できるか?いや、必ずやってほしい!できないなんて言わせない!今はお前だけが頼りだ!」
いきなり引っ張ってこられてカミュも当惑したが、落ち着いて考えてみればアテナがこの場所に封じられたまま二度と姿を見せぬはずはないのだ。 この黄金たちにとってはいまだ勝敗のわからぬ聖戦だろうが、カミュだけはこの戦いの帰趨を知っている。

   地上の平和は保たれる
   ハドリアヌス帝の治世は大過なく続き、ローマ帝国はこのあとも存続するのが
   その証拠だ
   冥界が地上を支配することは有り得ない
   ゆえにアテナは必ず復活する定めを持っている
   もしかしたら私はそのためにここに来たのかもしれぬ

それでも確認しておかなければならぬことがある。できることならカミュが手を出さぬにこしたことはないのだ。
「ライブラの聖闘士はどこに?六つの武具のうちどれか一つを使えばどんなに固い氷でも砕けるはずだが、もう試したのだろうか?」
カミュのもっともな疑問にジェミニが返した返事は驚くべきものだった。
「それは不可能だ。ライブラの聖衣はあの向こうに本人と共にある。」
「え……ということは…」
「ライブラが教皇だ。君がアクエリアスの作った氷を溶かせなければアテナは救えず、地上の命運も尽きるだろう。」
これはカミュの予想もしないことだった。
「だからもう君の素性は問わない。どこの誰でもかまわん。案外、神から使わされたのかもしれんな、そう考えるとこのタイミングで現れたというのも頷けるものがある。」
ジェミニの話に痺れを切らしたスコーピオンが、
「おい、もう説明は済んだだろう!急いでくれ!」
とせかす。
「あいつがいつまで持つか心配だ。もう一ヶ月もたっているんだからな。」

   ……あいつとは?
   むろんアテナや教皇のことではありえない
   アクエリアスのことをとりわけ心配しているのか?

一種の予感めいたものを抱きながら氷壁の前に立ったカミュは心を決めた。これは歴史を変える行為ではない、むしろ歴史の流れに沿った行為なのだと。

   恐れることはない
   すべては神の配剤であり天慮なのだ
   私が拒否することこそ歴史を歪める行為にほかならないだろう

分厚い氷に向かって手をかざす。はたしてどれほどの凍気が込められているかは溶解を始めてみないとわからない。二千年前のアクエリアスの技の精度がカミュの技量の範疇を遥かに超えているとしたら渾身の力を振り絞っても徒労かもしれぬのだ。
息を詰めて見守る黄金たちの目の前でカミュの小宇宙が高まりはじめた。恐ろしいほどの密度に膨れ上がったそれが氷壁を包み強固な結界の呪縛を徐々に緩め始める。黄金たちがあらゆる手段を使ってもなんの変化も起こらなかった氷の表面に水の層が現れた。
やがて緻密な粒子となった水分が見る見るうちに気体となって遥かな高みに昇ってゆくのを見た黄金たちがどよめいた。
氷の壁が2メートルほど後退した時、急にカミュがよろめいた。
「どうしたっ!」
急ぎ駆け寄ったスコーピオンが支えてやる。
「思いのほか結合が強い。せめて……せめて聖衣があれば…!」
力及ばぬ口惜しさに思わずカミュがそう口走った時、スコーピオンが思いがけないことを言った。
「聖衣ならある!」
「えっ、でもアクエリアスが中にいるのになぜ?」
「その前の闘いで聖衣が損傷して修復にかかっている最中だったんだ。だからあいつは生身で闘って、倒れる寸前にこの結界を作った。」
「聖衣がないのに、これを!?」
はたして自分は戦闘中にこれだけの結界を作れるだろうかとカミュは思う。それも聖衣なしでダメージを受けながら。
「それだけではありません。修復に必要な血を提供したのはアクエリアス本人です。」
「えっ!」
修復を手掛けたアリエスが教えてくれた事実がカミュには衝撃だ。身体の血を半分失った状態でこれだけのことをやってのけるとはとても信じられなかった。

   すでに一ヶ月も経っている
   はたして生きているだろうか?

最後の力を振り絞ったアクエリアスの安否をスコーピオンが心配するのも当然だ。アテナの小宇宙は微弱ながら感じられるが、アクエリアスのそれは氷壁の凍気に等しいためか判別ができない。もう一つの小宇宙はおそらくライブラの教皇のものだろう。
「では、すぐに聖衣を!一刻の猶予もできぬ!聖衣さえあれば必ず溶かしてみせる!」
「俺と一緒に来い!修復を終えた聖衣は宝瓶宮にある!ジェミニ!緊急事態だ、テレポートするからなっ!」
カミュの腕をつかんだスコーピオンにジェミニが承諾の返事を与える前に二人の姿は消えていた。