◇その46◇

「これに着替えてくれ!」
宝瓶宮の寝室にテレポートしたスコーピオンが最初にしたのは箪笥の引き出しから服をつかみだすことだった。トーガでは聖衣を着ることはできないのでカミュにとってはありがたい。
風のように着替え終わったとたん、がしっと腕を掴まれて連れて行かれたのはもっとも奥まった窓のないホールだ。ここはカミュも聖衣を安置しておく場所で、二千年の時を隔ててもそのあたりは変わらぬものらしい。 聖衣櫃は床に直接置かれており、真夜中の闇の中でも入ってきた聖闘士の小宇宙に感応して鈍い光を放ち始めている。
すぐに近寄ったカミュが両手をかざす。

   この聖衣が認識しているのはこの時代のアクエリアスであって私ではない
   頼むから私のことも認めてくれ!
   だが、もしも……もしも一人の黄金しか認めないとしたら?

せめてデジェルに聖衣をまとわせてさえいたら確証が持てるのだが、いまさら悔やんでも始まらない。胸の奥にくすぶる不安を必死に押さえ込みながら小宇宙を高めると、聖衣櫃の蓋がゆっくりと開き、見慣れた水瓶座の聖衣が姿を見せた。しかし装着がなされない。たしかに聖衣は共鳴しているのにまるで迷っているかのようだ。

    認めてもらえない? そんなっ……ここまできて!
    ……いや、そんなはずはない
   アテナは救われて地上の平和は守られる
   そうでなくてはならないのだ
   それとも………私ではないのか?
   アテナは他の方法で救われて、私の存在は歴史の中の誤謬に過ぎないのか?

期待に反して聖衣の反応が鈍いことにカミュが焦燥を覚えたとき、スコーピオンがすっと聖衣に近寄った。
「この男もアクエリアスの聖闘士だ!頼むから認めてやってくれ!」
カミュの腕をつかんだスコーピオンがそう言って手を伸ばしてアクエリアスの黄金の聖衣に触れた瞬間、 まばゆい光があたりを包んだ。カミュにはまるでスコーピオンの身体を媒介にして聖衣との間に小宇宙が奔流のように通ったようにも思われた。転瞬カミュの身体を聖衣が包む。五体を小宇宙が駆け巡る久しぶりの感覚に充実感を覚えたカミュは歓喜のうちに、
「行こう!」
と鋭く一声かけると即座に元いた神殿に跳んでいた。むろん間髪を入れずにスコーピオンも後を追う。
時間にすれば1分もかからなかったのではあるまいか。ほぼ同時に現れたカミュとスコーピオンを目の当たりにした黄金たちが歓喜のどよめきを上げる。本当にこの新来者がアクエリアスの聖衣を身に着けられるのかという危惧を見事に打ち破ってくれたのだから。
無言で氷壁に相対したカミュは両腕を伸ばすと先ほどとは比べ物にならぬ強大な凍気を放ち始めた。凍気によって造られた結界を解くには同じく凍気を以ってせねばならない。いかに技量に優れた黄金といえども余人にはできない技なのだ。

   これなら可能だ!
   聖衣は私を認めてくれた!
   持てる力の全てを注ぎ込みアテナを救ってみせる!

一心不乱にカミュが氷壁を溶かしている間に黄金はみな警戒を解いていた。これほどの凍気を見せられては疑いようがないではないか。理由はわからないがもう一人のアクエリアスが目の前にいる。
「見えた!」
スコーピオンが叫んだ。薄くなってきた氷壁の向こうに朧な人影がある。それからは凍気を抑えながらより慎重に溶解を進め、やがて薄い氷の幕が乾いた音を立てて砕け散り蒸気となって消え去った。澄み切った凍気が拡散し平常の気温に戻るのは早かった。
今は解放された空間の奥にある黄金の玉座にアテナが座っており、その前に立ちふさがっているのはライブラの聖闘士、すなわち教皇だ。その手前に倒れているのがアクエリアスに違いない。この時代のアテナは二十歳をいくつかすぎたくらいの乙女で、沙織を見慣れているカミュにとってはとても大人びて見える。
「アテナ!」
ジェミニをはじめとする黄金たちが一斉に駆け寄って跪く。その中でいちばん後ろに位置したスコーピオンが動かぬアクエリアスのそばにいるのに気付いたのはカミュだけだったろう。
仁王立ちになっていたライブラの聖闘士の身体がゆらりと動いた。ゆっくりと目を開き一同を見る。はっとしたカミュが皆にならって跪こうとしたときアテナが口を開いた。
「アクエリアス、あなたが来るのを待っていました。私たちを助けてくれてありがとう。」
その言葉と同時に暖かな小宇宙がみるみるうちに広がって聖域を包んでゆく。
「アテナ!よくぞ御無事で!」
一同を代表したジェミニが声を詰まらせた。この一か月というものあらゆる手を尽くしてもびくともしなかった結界がついに解かれてアテナが再び姿を現したことの感動に包まれているのは明らかだ。
「皆にも心配をかけました。私と教皇は大丈夫ですがアクエリアスのことが心配です。すぐに手当てを!」
「はっ!」
答えると同時に横たわったままのアクエリアスを抱き上げたスコーピオンが、
「ありがとう。感謝する。あとで宝瓶宮に来てくれ。」
とカミュに口早に言って姿を消した。きっと一秒でも早くそうしたかったに違いないのだが、さすがにアテナの言葉を聞く間はじっと耐えていたのだろうと思われた。
「ジェミニ、われらがここに閉じこもったあとはどうなった?」
教皇の問いに、その後の戦況を報告したジェミニがさらにコロッセオでもう一人のアクエリアスに出会った話をすると教皇が大きく頷いた。
「その者の出現はアテナが予言しておられた。ゆえにアクエリアスも後顧の憂いなく最大限の力でこの結界を作ったのだ。」
「なんと!そうでしたか!」
なんびとにも解くことのできない結界にアテナを閉じ込めるよりは、救援が来るという万が一の奇跡を信じて死力を尽くして冥界軍と戦っているほうがまだ先の見込みがあるのではないか、という疑念をひそかに抱いていた者がいたかもしれないが、その疑念もここに至って氷解した。
必ずや訪れるはずのもう一人のアクエリアスを信じて、アテナが結界に籠ることを選択したのだ。そのアテナを信じるがゆえにアクエリアスも全力を尽くすことができたのだろう。
「わたくしにあなたのことを教えてください。一つの時代には一人のアクエリアスしかいないはず。あなたはどこから来たのでしょうか?」
すっと立ち上がったアテナが跪いているカミュのほうに進み出るのに合わせて黄金たちがさっと道を開ける。一同の目がカミュに注がれた。
「わたくしは…」
「真実をつまびらかにすることを恐れる必要はありません。あなたの存在が地上を救ったのです。正義はあなたの上にあります。」
目の前に立つアテナの言葉がカミュの心のうちにわずかに残っていた危惧を春の日の氷のように消し去った。

   なにを恐れることがあろう
   この時代に私が来たのもすべて定められていたことなのだ

そうしてカミュは言葉を選びながらおのれの素性を語り、黄金たちは不思議な物語に真剣な面持ちで聞き入った。
「二千年とは!」
「ではこの地上はあと二千年は確実に保たれるのだな!」
喜色をみなぎらせた黄金たちが興奮した面持ちで次々と握手を求めてきてあらためて自己紹介するのがカミュにはなんともいえず嬉しかった。