◇その47◇

ひとしきりの興奮が収まるとジェミニが宝瓶宮の様子を見に行こうと言い出した。
「助けが必要ならスコーピオンが呼ぶだろうから大丈夫だとは思うが、あれほど疲弊していては気にかかる。大勢で行ってはかえってよくないだろうから私と君が……まだ聞いていなかったな。君の名は?」
「カミュです。」
「では私とカミュで行ってくる。後のことは頼む。」
アテナの護衛と十二宮の警戒を怠らぬようにと指示を出したジェミニとともに神殿を出たカミュは今度は万感の思いを胸に階段を降りてゆく。二千年の間に磨り減っていた大理石もいまはまだ角が残っている。一見したところ破壊された宮もないらしく、聖域の往時の輝かしさがカミュの胸を打った。
壮麗な大理石の建築が妍を競い、麓から頂まで見え隠れしながら連なって月光に照らされているさまはたとえようもなく美しい。はるかに見下ろす山麓にほんのわずかに見えているのが白羊宮の在りし日の姿だと気付いたカミュは、このあとの二千年の間に見る影もなく破壊されてしまうことが口惜しくてならなかった。

   ここでは現実の眺めだが私から見ると神話の時代に等しいようにも思われる
   それにしてもなんと美しいのだろう
   これをミロにも一目見せてやりたいものだ

これから何人の聖闘士がここを歩き、そしてまたどんなことが起こるのか誰も知らないが、一つだけ確実なのは聖域が存続しこの地上の安定も保たれるということだ。
「カミュ、君の時代にも聖域は変わりはないか?」
「ええ、アテナもおいでになりますし、主な建物もそのままです。多少は改築されたものもありますが。」
「そうか、よかった。」
かなり昔から崩れたままの白羊宮や、あの聖戦で破壊された処女宮、そのほかの激しい戦闘で損傷したままの宮は数多い。しかしそれをジェミニに告げるつもりはなかった。時代の流れにはとても太刀打ちできるものではないし、そもそもジェミニの質問の意図は建築物のことではない。
「二千年か……それこそ我々が神話になりかねないほどの時の流れだな。現に私は今から二千年前の世界がどうであったのかまったくわからない。不確かな言い伝えが残っいてるだけだ。カミュ、君にはこの時代がどう見える?」
「私の時代に至るまでにいろいろな発明や発見はありましたが、人の心や感情にはなにも変わりがありません。この時代の記録や建築物なども多数残っており、過去の歴史を知るために地中に埋まったものを発掘することも恒常的に行われています。」
「それではうかつなものは埋められないというわけか。」
ジェミニが苦笑する。
「それにしても、君がここに来たのは神のお導きに違いない。アテナを救うという目的を達したからには、いずれ君の時代に還れる日が来るものと思う。その点は安心してよいだろう。神の配剤に遺漏はない。」
「そう言っていただけてほっとします。実は少し心配していました。」
「そうは言っても、もしも君が戦線に加わってくれたら千人力だが……いや、そうではないな。アクエリアスが復帰したら君の聖衣がないのだから、百人力というところか。」
そう言われてカミュはおのれのまとっている黄金聖衣を見た。よくもまあ、見も知らぬ自分を認めてくれたものだと思う。

   あの時はスコーピオンが手を貸してくれたのだった
   それがなければどうなっていたことか
   やはりこの時代もスコーピオンとアクエリアスの縁は深いのだろう

すべては運命だ。
登別にルシウスがやって来たことも、そのルシウスと一緒にカミュがローマに来たことも、そしてミロにメッセージを残そうとしたカミュがコロッセウムでラダマンティスに襲われたことも、すべてはこの時代のアテナを救うために必要なことだったのだと今にしてわかる。
「アクエリアスが目覚めたら話をしてみたいものですが、あの様子ではそうもいかないでしょう。私も先ほどお話したように、夜明けまでにはローマの家に戻らなければなりませんから。」
見上げる月はまだ中天にかかっている。灯心のわずかな明るさしかないこの時代には夜の暗さを妨げるものは何もなく、暗い夜空を埋め尽くすように輝いている見知った星々にカミュは圧倒された。日が落ちてからは空を見上げるほかになにもすることのなかった時代の人々は、飽かずに星を眺めてやがて星座の形に関連付けた神話を創造し、さらには月の運行や彗星の出現に法則性を見い出していったのだ。天文学の始まりである。

   私も神話の時代にいるのだろうか
   人の暮らしが素朴だったこの時代には神の存在は近しいものだったに違いない

思い返せばコロッセウムでラダマンティスに襲われたときに来合わせたローマ兵たちはあの様子を何と思ったことだろう。見たことのない漆黒の怪異な鎧をまとった人物が目の前で消え、続いて月の光を浴びて黄金に輝く鎧の人物も消え失せたのだ。
あれを神の降臨ととらえるのは至極当然で、きっと今頃はローマ兵の間で噂になっているに違いなかった。これがローマ市民の間に喧伝されるころには新しい神の目撃譚として語られるのだろう。この時代の聖闘士は、まさしく神を体現しているのだ。
「それにしても実に思いがけない話だ。君が突然の事故でローマに来て、コロッセウムでラダマンティスに襲われているところをスコーピオンに救われる。その結果、アテナを救い、この地上を救った。そのおかげで君の時代まで平和が続いているのだからな。」
「私もそのことについては不思議の感に打たれます。人智のはるか上をゆく、まさしく神の意思を感じないわけにはいきません。」
そんな話をしながら双魚宮を過ぎ、宝瓶宮の前に立つ。さきほど聖衣を取りに来たときはいきなり居間にテレポートしたので正面から見るのは初めてだ。
「変わってはいないか?」
「扉や窓のいくつかは変わっています。ほかにも変化はありますが建物自体は同じです。」
2000年後の宝瓶宮には電気や水道などのライフラインの設備が備わり、各部屋の用途や家具調度の面でもおおいに変化がある。さっきはちらとしか見なかったが、部屋のしつらえは実に質素で天井の高い大空間だけが印象的だったのを思い出す。
ジェミニが先に立って重い扉を押し開けた。ホールに常設の明かりはなく、勝手知ったる暗い闇を歩き出したところでジェミニが掌をかざして小宇宙を発光させた。
「明かりは使っていないのですか?」
カミュの問いにジェミニは当然のように頷く。
「知ってのとおり、聖域には樹木が少ない。冬季に暖を取るために使う薪の量だけでもかなりの量になる。照明に余分な燃料は回せない。それよりも我々が小宇宙を使えば無駄は抑えられる。これがいちばん有効だ。」
「たしかに。」
私用で小宇宙を使うのを禁ずるのは当然と思っていたが、それは電力やガスをふんだんに使える現代だからできることで、まだまだ資源の利用に乏しいこの時代には聖闘士が日常から小宇宙を使うのは当たり前とされていた。夜間のちょっとした明るさを得るために小宇宙を燃焼させるのは階段を昇りながら話をするのとさして変わらぬ負荷に過ぎない。
「私だ。入るぞ。」
扉の外からジェミニが声をかけるのと同時に中からスコーピオンが顔をのぞかせた。近づいてくる気配を感じていたのだろう。
「アクエリアスはどうだ?」
「まだなんとも言えないが、さっきより悪い兆候があるわけではない。慎重に小宇宙を送って様子を見ているところだ。」
「そうか、ひとまずよかった。なんとかして回復するとよいのだが。」
頷いたジェミニがカミュを振り返った。
「彼の話を聞いた。なんと二千年先の聖域から来たのだそうだ。我々の苦境を救うために神が遣わされたのに違いない。いずれは元の世界に戻るはずだが、それがいつかはわからない。」
「二千年とは!」
目を見開いたスコーピオンがカミュを注視した。
「これは驚いた!そのおかげで我々は助かったのだな!それならアクエリアスが二人というのも頷ける。ありがとう、感謝する。」
差し出された手はとても暖かい。
「アクエリアスのカミュです。お役に立てて何よりでした。」
「さあ、入ってくれ。君が助けたアクエリアスに会ってやってほしい。」」
招じ入れられた部屋はカミュが図書室として使っている部屋で、奥まった窓際に飾り気のないベッドがあり、そこにアクエリアスは寝かされていた。薄い夜具がかけられていてスコーピオンの小宇宙にしっとりと包まれているのがはっきりとわかる。
ジェミニのあとに続いてそっと近付いたカミュは氷の壁の向こうに倒れていたときには見えなかった自分と同じ水瓶座の聖闘士の顔を初めて見た。
ベッドの横の小卓の灯心にぼんやりと照らされているだけなのではっきりとは判別できないが、スコーピオンと同じく二十歳を半ば過ぎたらしい年恰好で長い髪がゆるやかに渦を巻き枕のそばを覆っていた。整った顔立ちの頬の色は夜目にも怖いほど白くてカミュを恐れさせた。

   ここには保温のための設備もなければ点滴もない
   血圧も血中酸素濃度もわからないまま小宇宙を送り続けることしかできぬとは…
   この状態が長く続けば栄養も水分も絶対的に不足するのは目に見えている

はるかに優れた医療技術の存在を知っているカミュにはこの状況が歯痒くてならない。十二宮の闘いでもフリージングコフィンの中から救い出された氷河がアンドロメダに温めてもらって危機を脱したことは聞いてはいるが、いま目の前にいるアクエリアスは自らの作り出した氷壁の凍気を受けてひと月余も倒れ伏していたのだ。フリージングコフィンに封じ込められていた氷河の場合とは比べ物にならぬほどの時が無情に過ぎていた。

   はたして助かるのだろうか?
   私はアテナと地上を救うためにこの地に来たのだが、
   もしも……もしも、その範疇にアクエリアスが含まれていないとしたら?

恐ろしい憶測にカミュは恐怖した。目の前に横たわるアクエリアスは冥界に旅立つ運命にあるのだろうか。
「なにかできることがあればよいのだが…」
苦渋のうちにカミュが呟いた。同じ星のもとに生まれたアクエリアスがそこにいるのにもかかわらず、目を合わせることもなく声さえも聞くことのかなわないままに別れねばならぬのかと思うとたまらなく切なかった。