◇その48◇

暗い部屋の中でカミュ、ジェミニ、スコーピオンの三人が小声で話し合っている。未来のことに関心を持った二人からの質問に対してカミュは当たり障りのない程度に答えたが、カミュのほうこそ この時代の聖域のことについて知りたいことが多すぎた。
その応答の間にもスコーピオンはアクエリアスを気遣い、しきりに様子を窺っているのが見て取れる。

   フリージングコフィンから氷河を救い出した後は
   アンドロメダが抱いて小宇宙を分け与えて蘇生させたと聞いている
   宝瓶宮で倒れた私が目覚めた時もミロに抱かれていたのだった
   ならばスコーピオンもアクエリアスを抱いてやったほうがいいのでは?
   それとも私たちがいるから控えているのだろうか?

凍気で半ば凍りついた人間を蘇生させるマニュアルがあるわけではなくて、アンドロメダもミロもその場で思いついたことを自然にやったに過ぎないのだろう。冷たいものを温めるときに抱きしめるのは自然な振る舞いというものだ。ミロがシベリアでクレバスに落ち込んだ時にはカミュも一晩中寄り添って小宇宙を送り続けたことがある。
「あの……アクエリアスのことですが、」
「なんだ?」
これはかなり言いにくい。抱いたほうが効率がいいのでは?と聞くのはいかがなものか。

   もしかしたらこの時代の聖域には、
   そのようなことに関してなにか禁忌とされるようことがあるのかもしれない
   人の命には関係ないはずだが、そういった暗黙の定めには逆らい難いものだ

いくばくかの逡巡のあとカミュは思い切って聞いてみた。
「私の時代にも同じように凍気を浴びて仮死状態に陥った事例がありましたが、いずれも身体を間近く寄り添わせて小宇宙を送り続けることで事なきを得ました。そのような手法は難しいのでしょうか?」
抱けとはとても言えなくて、やや曖昧な言い方になってしまうのは致し方ない。
「やってみたがとても無理だった。神殿からテレポートしてここに連れてくるだけでもギリギリの状態だったからな。抱けるものなら俺も抱いてやりたいが、とてつもない凍気に俺の熱が吸い取られるばかりで小宇宙を送り込む前に共倒れになるのは明らかだ。だからまだるっこしいがこうしてゆっくりと小宇宙で包んでいるしか方法がない。」
ゆえにかろうじてできるのは時々アクエリアスの手をさすってやるくらいのものなのだという。握り続けていれば手が凍る。
「聖衣があれば凍気は防げるかと思ったが、そんな生易しいものではなかった。持てる力をすべて出し切って作った氷の冷たさを一身に受けたんだ。それも一か月もだ。あまりに長い。長すぎる。」
アテナは自らの小宇宙を失ってはいなかったし、教皇は聖衣を身に着けていた。しかし聖衣修復のために血を提供した身体で氷の壁を作ったアクエリアスはおのれを守るものをなにも持ってはいなかったのだ。

   このまま終わってしまうのだろうか
   同じアクエリアスと一言も話さぬうちにローマに戻らねばならぬのか
   そうだ……せめて握手だけでも

突き詰めた思いに揺り動かされたカミュが、スコーピオンが離したばかりのアクエリアスの凍えた手を取ったとき、水瓶座の聖衣が明るい青の輝きを放ったのだ。
「あっ!」
その光は右手の手掌のパーツから腕を伝ってくまなく全身に行きわたり、部屋の内部を仄青く浮かび上がらせた。驚いたジェミニとスコーピオンがカミュを見つめ、それからアクエリアスを見ると心なしか凍気が緩んだ気さえする。
「どういうことだっ!?なぜ聖衣が!?」
「もしや凍気に共鳴しているのか!?」
「これは……私にもわからないが……でも聖衣が息づいているのがわかる!まるでアクエリアスの凍気を吸い取っているかのようだ!」
そう言っている間にもアクエリアスの聖衣は青白い光を帯びて淡く輝いている。
「それは冷たくはないのか?大丈夫か?」
心配そうにスコーピオンがたずねてきた。これで聖衣ごとカミュが凍ったら取り返しのつかないことになるのを案じたのだ。
「いえ、大丈夫です。冷たいのは確かですが凍えるほどではありません。それどころか聖衣に小宇宙が満ち満ちて躍動する思いがします。
それは今までに感じたことのない手ごたえでカミュを驚かせた。当惑しながら手を離してみると見る見るうちに聖衣は光を失いあたりはまた元の暗さに戻る。
「カミュ、もう一度手を握ってみてくれ。」
ジェミニの指示で今度は両手でアクエリアスの手を包むようにすると再び同じことが起こった。そして三人とも同時にアクエリアスの身体の中でごくわずかに小宇宙が揺らめくのを感じ取ったのだ。
「すごい!これなら助かるかもしれん!」
「実に不思議だ!冷たさも緩和されるとは、アクエリアスの聖衣にはなにか特別な力があるのだろうか?」

   もしかすると……

とカミュは思う。
自らの凍気で凍った水瓶座の聖闘士が同じ水瓶座の黄金に癒してもらったことはない。それは当たり前で、同じ時代に二人の水瓶座の黄金がいるはずはないからだ。
しかし、不思議な巡り合わせでここには二人のアクエリアスがいる。カミュは二千年後におのれのものになる黄金聖衣を身に纏い、凍気に倒れたアクエリアスに触れたのだ。本来あるはずのないことが起こり、この結果が導き出されたのではないか?
同じことをスコーピオンも思ったようだ。
「きっと聖衣を仲立ちにしてアクエリアスの小宇宙が凍気を循環させたのだ、そうに違いない。俺にもジェミニにもそんなことはできないが、カミュ、君ならできる!君が来たのはアテナを救うためだけじゃない!頼む!助けてやってくれ!」
血を吐くような叫びがカミュの胸を打った。

   できることなら助けたい!
   でもそれは許されるのだろうか  歴史を変えることになりはしないだろうか

その疑問を口にすると二人とも唸ってしまった。アテナを救うこと = アクエリアスを救うことではないのだ。歴史を変えてはいけないことはこの時代の二人にもよくわかる。下手をしたら聖域の存在や地上の安定を揺るがす一因になりかねないことを思うと躊躇する。
沈黙が降りた。
「俺は助けたい。助けてやりたい。でもそれは神の意思に反するのか?それで歴史が変わるとすれば、変わった後の歴史が正しいものになるのではないのか?それともそれは、してはならない邪悪の行いなのか?」
スコーピオンの疑問はもっともだ。この時代に来て以来、そのことを数え切れないほど考えてきたカミュにも判断がつきかねた。目の前のアクエリアスを救うことは正か邪か?

その時スコーピオンが苦しそうに呟いた名前がカミュの気を惹いた。
どこかで聞いたような気がするのはなぜだろう?心の中でその名を反芻するうちにカミュの脳裏に天啓のように閃いたことがある。とうに忘れていたはずの古い記憶がいま目の前によみがえる。

   その名を私は知っている そしてスコーピオンの名さえもだ
   そうだ! そうに違いない! アクエリアスは今後も生きる!

「今おっしゃったのは、もしやアクエリアスの名前ですか?」
「……そうだ。普段は使うことはない。黄金になったときからアクエリアスというのが彼の名になったが、それでも時々は……そう呼ぶこともある。」
少し言いよどんだスコーピオンが目を伏せた。灯心の明かりだけならわからなかっただろうが、今は聖衣が青い光を放っているので膝の上でぎゅっと握った拳が見えて、カミュにはその心の内がなにもかも見通せるような気がした。

   なにを恐れることがあるものか!
   アクエリアスを助けても歴史は変わらない!
   聖域のためにもスコーピオンのためにも私が生かしてみせる!

「アクエリアスは生きる運命にあります。私が全力を尽くしましょう。」
「なにっ!」
「やってくれるか!」
自信に満ち溢れたカミュの言葉がジェミニとスコーピオンを奮い立たせた。