◇その50 ◇
「様子は?」
「変わりない。まだ微弱だが小宇宙は確実に感じられる。」
「よかった。」
夜になってルシウスの家を忍び出たカミュは、数ブロック離れたあたりで人目のないことを確認すると直接宝瓶宮の寝室に跳んだ。すぐに聖衣を身につけると横たわるアクエリアスのそばにすべりこむ。聖衣のままで横になるのは極めて難しいがそんなことを言ってはいられない。少しでも接する面積を多くして凍気を聖衣に吸収させてアクエリアスを回復させるのが急務だ。
暗かった室内は水瓶座の聖衣が放ち始めた青い光ですぐに照らし出されて、それまで一人だったスコーピオンの不安な気持ちを和らげてくれるのにおおいに力を発揮した。
「うまく抜け出せたか?宿主にはなんと?」
「ルシウスは熟睡するタイプなので気付かれることは有り得ません。日中は同行しなくてはなりませんが夜間は来ることができます。」
「ほんとうに感謝する。できることなら眠ってくれ。疲れがたまってはいけない。昼間はアリエスが来てくれているので俺のほうは大丈夫だ。」
「ではそうさせていただきます。」
頷いたカミュが目を閉じた。睡眠をとらなければこのこの計画は長続きしない。やがてカミュの寝息が聞こえてきたが聖衣は相変わらず青い光を放っている。
ほっとしたスコーピオンが椅子に掛けたまま二人の寝顔を見つめていると足音を忍ばせてジェミニがやってきた。声をひそめて会話を交わす。
「様子はどうだ?」
「順調だ。さっき眠ったところだ。」
「それはよかった。今のところは冥界の動きはないが、いつなにが起こるかわからない。その時には頼む。」
「わかった。」
平時の聖域ではない。いつまた冥界が牙を剥いて襲いかかってこないとも限らない状況なので、起こりうるすべての状況に対する対応策はすでにカミュと協議済みだ。もしも十二宮内でスコーピオンが戦闘に参加した時には、カミュはアクエリアスを守ることのみに力を注ぎ、積極的に戦闘に加わらないことが決まっている。
「では、いつ二千年先に帰ることになるのか予測がつかないのだな。」
「これまでの事例ではルシウスが急に水に浸かった時に移動が起こるようですから、普通の雨くらいでは平気でしょう。入浴時がもっとも危険ですので夜間は安心できます。」
「まさか風呂に入るなとも言えないからな。皇帝から奴隷に至るまで、ローマ人の風呂好きはギリシャにも聞こえている。」
「できる限り夜間はここに来てアクエリアスの回復に努めますが、いつそれができなくなるかわかりません。もしも夜になっても私が来なかった時には…」
「それは気にしなくていい。それならそれで運命だ。そのあとはかなわぬまでも俺がやってみる。ここもいつ冥界が攻めてくるかわからんし、ほかの場所で戦闘が始まるかもしれんからな。ジェミニはなるべく俺を残すと言ってくれているが、戦況が厳しくなればそうもいかんだろう。それもまた運命だ。」
「最善の努力を尽くしましょう。予想外の事態が起こりさえしなければアクエリアスはきっと復活します。」
「ありがとう。それを期待している。」
カミュが自信ありげなのがスコーピオンには嬉しい。ほんの一日前にコロッセウムで助けた時にはまさかこんなことになるとは思いもしなかったのだ。
ほんとにあの時助けてよかった!
俺に追われてコロッセウムに姿を現したラダマンティスがカミュを襲い、
それから俺が奴とやりあう前にローマ兵がやってきたので双方とも引いて
負傷したカミュを聖域に連れ帰ってアリエスが治療して
このすべてがあらかじめ定められた出来事だったのだと思うと、神の配剤に粛然とする。
会った初日にカミュが夜中のコロッセウムにいた理由を聞いたスコーピオンはそれならと申し出た。
「そいつは難しいだろう。コロッセウムの警備は固い。ローマ皇帝も臨席する重要施設だから異変があったら警備責任者は辺境に飛ばされるという話だ。針一本落ちても聞きつけられるというコロッセウムで鑿と金槌を使ったら、あっという間に兵が駆けつけてくるだろう。ここは俺の出番だな。」
その明け方にカミュをコロッセウムに送ってきたスコーピオンは例の壁のところで人差し指を伸ばして小宇宙を高めるとあっという間に望み通りの伝言を刻んでくれた。かすかに石を削る音がするだけで、これでは人の来ようはずもない。
「こんなところでどうだ?」
「ありがとう。とても読みやすい。」
「これが二千年も残るとは面白いものだな。一か所だとこの壁が損傷する可能性もあるから、あと何か所か彫ったほうがいいだろう。」
そう言ったスコーピオンはカミュに二千年のちまで残る壁の位置を聞きながら全部で五か所に同じことをしてくれた。
「ではまた今夜。待っている。」
「では。」
スコーピオンが姿を消してカミュも帰路についた。
こうして五日が過ぎ、アクエリアスの頬に血の色がわずかに上ってきたのを確認したカミュがスコーピオンと喜び合った翌日のことだ。ルシウスに一通の手紙が届けられた。
「ふうむ、これでは私が行くしかあるまい。じきに迎えの馬車が来る。」
「どうしたのです?」
「皇帝から呼び出しがかかった。以前作って差し上げたティヴォリの別荘の浴場の模様替えをなさりたいそうだ。これからすぐに行かねばならぬ。」
「では私も同道させてください。」
「ああ、いいとも。」
ルシウスの行くところには必ず同行すると決めてあるし、たとえどこにいようとも夜間は聖域に行くことができるので困ることはない。
ティヴォリはローマの東に30キロほどの丘陵にある町で、現代では16世紀に建てられたエステ家の別荘が世界遺産になっていることで有名だが、ハドリアヌス帝の時代には有力貴族が競って別荘を建てたので豪壮華麗な大小の建築物が並びかなりの壮観を呈している。皇帝差し回しの馬車で行く旅はカミュには目新しくてわくわくすることこの上ない。重要な街道なので石が敷かれていてよく整備されている。
「皇帝はいま別荘に滞在しておられる。君も謁見する機会があるかもしれんな。」
「それは光栄です。その際の礼儀作法はどのようにしたらよいでしょう?」
「私の真似をしていればいいだろう。皇帝は敵には厳しいが、別荘で寛いでおられるときは穏やかなお方だ。君の言葉遣いなら何の心配もない。」
「それならよいのですが。」
実在するローマ皇帝に会うという途方もない可能性にカミュの胸は高鳴った。ハドリアヌス帝の彫像は見た覚えがあるが、はたして本物はいかなる風貌なのか。
やがて行く手の小高い丘に豊かな森に囲まれた凝った造りの壮麗な建物群が見えてきた。規模の大きさは驚くべきもので大ローマ帝国に君臨する皇帝の権力と財力を余すところなく示してカミュを圧倒した。
「あれがティヴォリの別荘だ。もちろん皇帝自らが設計された傑作だ。」
ヴィッラ・アドリアーナだ!
建造されたばかりの実物をこの目で見る日が来ようとは!
ティヴォリの別荘と聞いただけではぴんと来なかったが、それはカミュがヴィッラ・アドリアーナという名で知っている、やはり二千年後に世界遺産となる運命を持つ建物だった。めくるめく思いのカミュを乗せた馬車が緩やかな坂道を登り始めた。
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