◇その51◇
やがて左前方の木立の向こうに巨大な建造物が見えてきた。高さはゆうに10メートルくらいはありそうで横幅は80メートルほどだ。それだけでも圧倒されるというのに、馬車が建物の角について曲がるとそれまで見えていたのは短辺に過ぎなくて、なんと奥行が200メートルくらいあるのがわかりカミュは思わず嘆声を上げた。
「すごい!なんという規模だろう!」
「あの中にはプールがあるそうだが、私は入ったことがない。」
「プールですか、さすがですね。」
「あれがいちばん大きいが、ほかにも神殿、図書館、劇場、病院などたくさんの建物がある。全域は広すぎて私にもよくわからない。」
イタリアには古代ローマの遺跡がいたるところにあって、カミュの知識をもってしてもカバーしきれない。いつかは行ってみたいと思っていたヴィッラ・アドリアーナの見取り図や復元図も見たはずだが、詳細を頭に入れているわけではないのでいざ目の前にすると感心することしきりだ。
カミュが左手の巨大な建物の構造に目を奪われているうちに馬車はそれに隣接する立派な造りの玄関と思しき場所を通り過ぎて裏手の入り口につけられた。穏やかな起伏の丘陵一帯に大小さまざまな建物が点在しているのでカミュとしては目移りすることこの上ない。
「さあ、降りよう。」
促されて降り立つと、そこは下級役人の出入口らしいのだが見上げるようなアーチの天井が見事で床のモザイクの意匠も凝っている。土地利用の制限もなければ費用の心配もないという現代ではとうてい考えられない好条件のもとで建築されたのだから隅々まで贅沢が行き渡っているのだ。立っていた兵に、
「私は浴場技師のルシウス・モデストゥスです。皇帝陛下のお呼びにより参上しました。」
とルシウスが言うと、
「こちらへ。」
と奥にいざなわれた。それからさらに三人の役人を介してやっと高貴な身分らしい男の前に案内された。むろんそこに至る前には二人とも身体検査を受けている。当時のローマでは暗殺されることを極度に警戒していたので当然のことだ。
「これはアントニヌス様、お久しぶりです。」
「ルシウスか、遠路ご苦労だった。皇帝陛下は海上劇場に居られる。私についてくるがいい。」
気品のある顔立ちのこの男はいかにも風格があり、執政官クラスではないかと思わせる。
……アントニヌス?
その名にカミュは、はっと悟るところがあった。
アントニヌスというと、
ハドリアヌス帝の後継者、ティトゥス・アウレリウス・アントニヌスかもしれぬ
最初に後継者と定めたルキウス・アエリウス・カエサルはまだ存命だが、
このあと何年かして死去し、138年にこのアントニヌスが帝位につくはずだ
法体系の整備と行政改革に熱意をそそぎ、
その22年の治世は平穏至極だったと云われている賢帝だ
しかし、おのれがいずれは帝位につくとは知らないアントニヌスはこのときはハドリアヌス帝の有力な側近の一人にすぎない。
さながら歴史の1ページを見る思いのカミュは高揚する。こんな時は申し訳ないがミロのこともアクエリアスのことも頭から飛んでしまうのはいたしかたない。
アントニヌスに連れられてやって来たのは周囲を円形の回廊で囲まれている建物で、高いアーチの入り口を入ると内側には幅5メートルほどの環状の池があり、その中央には何本もの石柱に支えられた東屋があった。海上というからにはこの円形の池は地中海を模したものなのだろう。いかにも美しく優雅な趣のあるたたずまいだ。
東屋には寝椅子が幾つか置いてあり、その一つにゆったりと横になって寛いでいる男の姿が見える。他に誰もいないところを見ると、あれがハドリアヌス帝に違いない。歴史に名高い五賢帝の一人が目の前にいることにカミュの胸はさらに高鳴った。
池にかけられた通路の手前で立ち止まったアントニヌスが、
「陛下、浴場技師のルシウス・モデストゥスが参っております。」
と呼びかけた。その声に頷いたハドリアヌス帝が身体を起こす。さすがに風格があり、堂々たる挙措が人並み優れているのがありありとわかる。
こんなところでルシウスが池に落ちるはずもなく、時空転移は起こらないと判断したカミュが池の手前で控えていると、ハドリアヌス帝の前で恭しく挨拶をしたルシウスが携えてきた図面を広げてなにやら打ち合わせを始めた。ハドリアヌス帝が建築に造詣が深いというのは本当で、かなり実際的な知識を持ち合わせているらしくルシウスと意見を交換しているようだった。
ルシウスが時のローマ皇帝と親しく話しているのを目の当たりにしたカミュがひそかに感嘆していると、
「察するところ、君はルシウスの助手か?」
とアントニヌスに尋ねられた。
「ルシウスが助手を連れてくるとは珍しいこともあったものだ。」
「は……縁あってそばで修行させてもらっております。」
「ふむ……」
アントニヌスがカミュを上から下まで値踏みするようにじっと見た。
「ルシウスは陛下のお気に入りだが、君もどうやら……」
「…は?」
「いや、それは私の関知するところではないな。おや、話が終わったらしい。」
ルシウスを伴ったハドリアヌス帝が、
「ではこれから浴場に行って具体的に指示するとしよう。完成が待ち遠しい。」
と言いながら通路を渡ってくる。一歩下がったカミュがアントニヌスの後ろで恭しく頭を下げていると、
「ルシウス、これは誰だ?」
と深みのある声がすぐそばで聞こえた。
「わたくしの助手です。今回は手が足りないと思いまして連れてまいりました。」
そうルシウスに紹介されたカミュはこうした場合の作法を知らなかったが、浴場技師の助手風情がことさらに名乗る必要はないだろうと判断してさらに頭を深く下げることにした。頷いたらしいハドリアヌス帝はそのまま回廊の外に出てルシウスと一緒に美しく整えられた並木道を歩き始めた。緑豊かな丘陵のあちこちに建てられた建築物はいずれも豪壮でカミュは胸を躍らせる。近くに行って、できることなら中を検分したいがそれができないのが口惜しい。
今でこそローマの遺跡は廃墟も同然の姿だが、建てられて間もないこの時代にはまことに美しく、風雨にさらされていない大理石特有の艶と質感を誇っているのだ。よく手入れされた夏の花はあちこちに咲き乱れ噴水の水が太陽の光に煌めいて贅沢もここに極まれりといった風情である。要所要所には微動だにせぬ警備の兵が立ち訪問者に威圧を与えているのは皇帝の権威を知らしめるためと、もちろん暗殺を恐れるせいだろう。
いくつかの建物を過ぎると浴場が見えてきた。ローマ市内にある浴場にはルシウスとたびたび訪れていたが、さすがにここの浴場は規模が違う。
なんという大きさだろう!
実に見事だ!
幾つも重なり合ったドーム状の天井は太い大理石の柱で支えられており、全体の構造はまるでローマ市内の邸宅のようだ。中央の浴室はたっぷりとした大空間でイオニア式の柱が林立している。さらに驚いたことにはもう一つの浴室は南面している壁面がすべてガラスと雲母で覆われていて太陽光を十二分に取り入れられる造りになっていた。ドーム型の天井には輝石が嵌め込まれていていっそうの豪華さを醸し出す。
ではこれをルシウスが設計したのだな!
この時代にたいした工夫だ!
カミュはルシウスを見直した。ハドリアヌス帝の重用も頷けようというものだ。
この建物の地下には使用人のための通路が張り巡らされているらしく、そこに通ずる入り口が脇のほうにぽっかりと口を開けていた。これは上流階級の者の目から使用人や奴隷たちの動きが見えないようにする工夫らしい。あとになってわかったことだが、こういった通路は敷地中に張り巡らされていて、上流階級がひたすら快適に過ごせるように工夫されているのだった。
カミュが浴場の造りに目を奪われているとルシウスと話していたハドリアヌス帝がふとカミュのほうを見た。
「ルシウス、あれは……名はなんという?」
「カミュと申します。」
「ふうむ…」
目を細めたハドリアヌス帝の心中にあるものをこのときのカミュは何も知らなかった。
「宿舎はここを使うように。」
一週間ほどは滞在することになるというので案内されたのは最初に見た巨大な建造物に隣接している建物の二階だ。中央のホールの両側に部屋が幾つも並んでいて床のモザイク模様は一つ一つ異なっているという凝った造りである。明らかに上流階級のためのものに違いない。
「どうしてここに?これまではもっと狭い使用人の区画に泊まったんだが。」
ルシウスが首をかしげる。
「こんなところに足を踏み入れたことはない。なにかの間違いではないだろうか?」
むろんカミュにもさっぱりわからないが専用の奴隷までつけられている。案内してくれた役人に聞くと、たしかに上司からここに案内せよと言われたのだといい、それ以上はなにもわからない。
「まあ、気にすることはないだろう。ことによるとまた新しい浴場をお造りになるなる計画があって、その報酬の一部ということかもしれん。ふうん、ずいぶんと設備が整っているな。」
部屋の造りに感心したルシウスがあちこちを調べ始め、このときもカミュはなにも不審を抱かなかった。
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