◇その52◇

夕食が終わってからはなにもすることがない。そろそろ寝床に入ろうかという頃合いに兵士二名を連れた使者がやってきて戸口でルシウスになにか話している。
「カミュ、アントニヌス様が君に用事だそうだ。」
「私に?いったいなんの用でしょう?」
「さあ?ともかく行ってみるんだな。私は先に寝ているから。」
眠そうなルシウスはなにも気にしていないが、さすがにカミュはこの呼び出しを怪しまずにはいられない。

   もしかすると私の立ち居振る舞いが不自然で素性を怪しまれたのだろうか?
   だとするとまずいことになる
   ルシウスに迷惑はかけられないし、尋問されたらどうしたものか?

用件を使者に聞いても知るはずもないし、もし理由を知っていたとしても漏らすものでもないだろう。漠然とした不安を抱えたまま外に出ると、夜の景色は昼間見たのとはまったく違っていてカミュを瞠目させた。白々とした月の光に照らされている大小の建造物はローマ帝国の繁栄の象徴だ。カミュがいずれ戻るはずの二十一世紀には廃墟となっているかと思うと残念でならないが、せめてこの目に焼き付けようとカミュは思う。
ハドリアヌス帝はその21年の在位中に二度にわたる長期の巡察旅行を行い、帝国防衛のための行政の整備などを自ら確認したのみならず、建築関係者を同道させて属州の各地に多様な造営事業を行った。イギリス北部ではハドリアヌスが築かせた長さ114キロメートルに及ぶ城壁の一部を見ることができ、現在のイングランドとスコットランドとの境界線にも大きな影響を与えているという大変な代物だ。
最初の旅行から戻ったハドリアヌスは自らが見聞した帝国内の異文化や景色をこの地に再現することに傾注した。120ヘクタール、東京ドームで言えば25個分の広さに三十数棟の建物を有したこのヴィッラ・アドリアーナは1999年に世界遺産に登録され、今もなお多くの観光客を惹きつけている。

   そのヴィッラ・アドリアーナを私は現実のものとして見ている
   この素晴らしさを伝える方法があればよいのだが…!
   ……いや、たとえスケッチや見取り図を持ち帰れたとしても、
   それが事実であるとわかってもらえるはずもない
   信じてくれるのはミロたちだけだ

そう思うと口惜しい。礎石や柱の跡しか残っていない場合は床面積はわかっても高さや装飾などは推測の域を出ないし、かろうじて二千年の歳月を持ちこたえた部分も表面が風化してもろくなり、見る影もないのが二十一世紀の遺跡の実態だ。
数々の遺跡の写真を思い浮かべて時の流れの残酷さに唇を噛みながら月明かりに照らされた道を歩いていくと、昼間訪れた浴場の前を通り過ぎた。そこから先はカミュにとっては未知の領域になる。かなり前に書籍で見ただけのこの別荘の見取り図の記憶もおぼろげで、この先に何があるのか皆目見当がつかない。
どこに連れて行かれるのかと思ったその時に、先頭に立つ兵の持っている槍の穂先がきらりと光り、まさかの思いがカミュを襲う。

   もしや……人知れず殺害されるのではあるまいな?
   いや、そんなはずはない 有り得ない!
   私には殺される理由がない!

しかし権謀術策渦巻く帝国の中枢で何が起こっているのか知れたものではないのだ。実子のいないハドリアヌス帝の周囲の人間模様の実情は部外者にはわからない。この呼び出しに、カミュにはとうてい察知できない政治的な力が働いてないとどうして言えようか。
広大な敷地の端のいかにも人目のなさそうなところに向かっていることは明らかで、カミュの胸に不安がきざす。恐れている事態が起こった時にはその場はいくらでも逃れられるが、そのあとは?
自分だけ逃げればあとに残ったルシウスが罪に問われる可能性が高い。あれは何者だと詰問されたルシウスが 湯を潜り抜けて行った未知の属州ニホンのことを白状しても信じてもらえるわけがない。ルシウスが真剣に説明すればするほど狂人扱いされるのが目に見える。生真面目なルシウスは前言を翻したりしないし、仮にルシウスがそうしても、ますますカミュの素性を説明できなくなるだけだ。
といって逃げないままにむざむざ殺されるわけにもいかぬので、怪我をしないうちにわざと捕縛されても次に待っているのは尋問だ。逃げるもならず、捕まるわけにもいかず、カミュは窮地に立つことになる。そして、どちらに転んでもルシウスと引き離されるのは確実で、そうなれば二度と元の時代には戻れない。
カミュが懊悩しているうちにいつしか道は緩やかにくだり始めた。目を凝らすと前方の東屋のそばに誰かが立っている。それがアントニヌスだった。
「ご苦労だった。ここから先は私だけでよい。」
そう言って兵たちを帰すとアントニヌスは先に立ってすたすたと先に歩いてゆく。怪しんだカミュがためらっていると、
「心配することはない。誰も君を取って食べたりはせぬからついてきたまえ。」
ちらと振り返ったアントニヌスにそう言われてカミュも腹をくくるほかはなかった。

よく手入れされた月桂樹の木立の横を通って行くと細長い窪地が見えてきた。木々を透かして月の光を反射しているのは水辺があるらしかった。細長い矩形をしているところを見るとデザインされたプールのようだ。
近付くにつれ、その周囲に意匠を凝らしたパーゴラや彫像群が見えてきた。真っ白い大理石が夜目にも輝いてまるで夢のような光景だ。木立の奥に隠された美の楽園のようなこの場所をカミュは書籍の中で見たことがある。

   これはカノプスだ! あのカノプスに違いない!
   ここまで美しかったとは!

カノプスとは、エジプトはアレキサンドリアの近郊にある街の名で、ナイル川の支流を引いた運河があることで古来から有名だ。いまカミュが見ている場所はそれを模したもので、両側が小高くなっている細長い窪地の中央に縦長の四角い池があり、その周囲はパーゴラで取り囲まれているという凝った造りだ。この時代らしい典雅なデザインのパーゴラの柱の一部は女神や女人の彫像が梁を支える形になっていてじつに華麗な装飾が施されているのがカミュの目を惹きつけた。ハドリアヌス帝はかつて訪れたエジプトへの憧憬の念を込めてこのカノプスを設計したのに違いなかった。
もちろんカミュが書籍の写真で知っているカノプスはかなり荒廃している姿だ。洗練された美を誇っていた彫像や優雅な曲線を描いている梁や柱のほとんどは失われたり池に沈んだりした哀れな状態で発見された。それを可能な限り修復したカノプスはこの別荘の中でも有名で、この広大な別荘地を訪れる観光客はここを外すことがない。
カミュもページをめくる手を止めて、いつかは行ってみたいと憧れた場所だ。しかし、二千年もの時の流れをさかのぼり、栄耀栄華を誇るローマ帝国全盛期のカノプスをこの目で見ることになろうとは思いもしないことだった。 どこからか聞こえる滝の音が静けさをいっそう引き立たせ、夜風が水面にさざ波を立てる。流れる雲の合間から漏れてきた月光が水の表にきらめいた。
カノプスを前にしたカミュがわが身に及ぶ危険も忘れて見惚れていると、ここに来るまでずっと無言だったアントニヌスが池の向こう端を指し示し、
「あそこに陛下がおられる。無礼の無いようにせよ。」
と言うと踵を返して帰っていった。ここに至ってカミュは自分を呼んだのがハドリアヌス帝であったことを知った。

   ハドリアヌス帝がいったい私になんの用があるというのだ?
   まさか浴場の設計のことであるはずがない
   そんなことなら一介の助手にではなくルシウスに聞くだろう
   ……ではなぜ?

この状況なら殺害される恐れはなさそうだが、といって呼ばれた理由もわからない。これからハドリアヌス帝と話をすればわかることなのだが、たった一人で取り残されたカミュにはこうした場合の作法などわかろうはずもない。同じ高貴崇敬の存在であるアテナや教皇が無限の慈悲と寛容の心を有しているのとは本質的に異なっている。
なにしろ相手は帝国内で生殺与奪の絶対権を持つ皇帝だ。帝位につく前のハドリアヌスがもっとも有力な元老院議員四人を粛清させたことはあまりにも有名だし、後継者選びの時には異議を唱えた義兄弟とその孫を自殺に追い込んだという記録もあるほどだ。
もしも機嫌を損ねればカミュの運命はあっというまに最悪の側に転がり落ちる。その場合にはルシウスにも累が及ぶことは間違いない。カミュの額に冷たい汗が浮かぶ。

   声がかかるまでこの場で平伏するのか?
   近づくとすれば、どのくらい手前で止まるのがふさわしいのだ?
   ひざまずくのか、それとも深々と頭を下げるべきか?

ルシウスは近くまで寄っていて図面を広げながら親しく話をしていたが、あれは何度も謁見したことがあり身元も確かな旧知の間柄だからできることである。身分は大きく異なるが同じ建築家同士という共通点が二人を結びつけていると考えられた。しかし、素性も知れないカミュが同じことをして許されると思うのはあまりに浅慮だろう。
こんなことならもっとルシウスにハドリアヌス帝の性格を聞いておけばよかったのだが、もう後の祭りである。
むろん、この場にいるのはハドリアヌス帝だけでないことはカミュにはとうにわかっている。左右の木立の陰にも正面奥の小さな神殿らしい建物の奥にも警護の精鋭が配置されているのは周知のことで、その中の何人かは万が一に備え、弓を引き絞ってカミュに狙いをつけているかもしれなかった。矢を射かけられるような振る舞いをする気はさらさらないが、もしもそうなったときにテレポートでのがれれば、やはりルシウスが尋問されるのは必然だ。
どんな行動をとれば適切なのかさすがに判断がつかず逡巡していると、遠くからハドリアヌス帝の声がした。

                         



       
 カノプス → こちら
             数ある訪問記の中でこちらの写真がもっとも美しいです


      ハドリアヌスの長城 → こちら