◇その53◇
「遠慮には及ばぬ。こちらに来るがいい。」
「は……」
細長い水面の遥か向こうから呼び掛けられて、我にもなく身がすくむ。同じ威厳でもアテナや教皇とは全く異質のそれはカミュが今までに一度も経験したことのないものだった。相手を威圧し服従させることに慣れ切ったハドリアヌス帝の声音がカミュを恐懼させる。
相手の意図がわからぬままに池の横のパーゴラを通り抜けると、小さな神殿のように見えたものはやはりエジプトのセラピス神を祭っているらしかった。もっともそのことにカミュが気付いたのはのちのことで、今現在はその前に置かれたベンチに身をもたせ掛けているハドリアヌス帝その人の存在が唯一の関心事だったのだが。
ここでの私は一介の市民に過ぎない
上流階級ならいざ知らず、この時代のローマで一市民が皇帝に拝謁するとき
の作法など知らないのが普通のはずだ
できる限りの尊敬の念を表せばとがめだてされるはずはない
古代ローマのことを書いた書籍はかなり読んだがそんな作法はどこにも書いてなかったことを思い出したカミュは池の端のあたりで片膝をつくと片手を胸に当てて頭を下げた。古代中国なら五体投地あたりが適切だろうが、さすがにローマでそれはないだろうと判断する。
「カミュといったか。もっとこちらに参れ。」
「はい。」
距離感がわからないが2メートルほどまで近づいて恭しく頭を下げた。これ以上近づくのは不遜と考えたのだ。
「生まれはどこだ?」
「ガリアです。」
いきなり聞かれてドキッとしたが答えないわけにはいかなかった。係累を尋ねられたらそこは正直に天涯孤独の身ですというつもりだったがそれはなかった。
「ガリアか。……ビテュニアではないのだな。」
ビテュニア?
ビテュニアといえばトルコの北西部にあったローマの属州だが、なぜ?
なんと答えてよいかわからずにカミュが黙っていると、
「まあ良い。ついて参れ。」
そう言って立ち上がったハドリアヌス帝はカミュが通ってきたのとは反対側の池の縁を通って中ほどまで来ると、正面に見えていたひときわ目立つ大理石の彫像を指差した。
「あれが誰だかわかるか?」
そう言われてカミュはその男性像をやっと正面から見た。このカノプスに来た時から気付いてはいたが、後ろ姿を見たのみでとくに気にしてはいなかったのだ。ほかにも数多くの彫像があり、全体のイメージでとらえていたにすぎなかった。
その彫像が身につけているのは装飾性の高い兜だけで左手には円形の盾を提げている。こうしたポーズの彫像はその多くが戦いの神アレスを表わすとされている。
「軍神アレスのように見受けられます。」
わからないというのも気が利かないと思ってそう答えると、
「アレスはこれほど美しくはない。これはアンティノーだ。」
「アンティノー…?」
カミュはその名を反芻してみた。
アンティノーとは? そのような名前の神があったろうか?
カミュの知識にはその名はない。もしかすると古代ローマ帝国では崇められていたがその後忘れ去られている神かもしれないと考えた。そうであれば自分が知らないのは当然だろう。
「そちは幾つになる?」
「20歳になります。」
「アンティノーと変わらぬな。恋人は居るか?」
「え…あの……居りません。」
いると答えればいろいろと追及されるだろうとカミュは考えた。ハドリアヌス帝がなぜそんなことを訊くのか皆目わからなかったが、どこにいるのか、どんな女かと聞かれていろいろと追及されては答えに窮することになる。その結果、怪しまれた挙句に自由を束縛されてはかなわない。
「それならますます都合がよい。アンティノーもそうだった。私は身勝手な振る舞いはしたくないのでな。」
なにが都合がよいのだ?
アンティノーとはいったい誰だ?
ますます話の行方が分からなくなったカミュがどう返事をしたものかと悩んでいると、
「ルシウスには私から話をしておく。必要なら新しい助手をつけよう。明日の朝食後に迎えの者を差し向ける。」
え? なんのことだ? 迎えとは?
取り巻きの貴族階級ならハドリアヌス帝の意図は明白なのだろうが、二十世紀からやって来たカミュには皆目見当がつかない。勇気を出して詳しい説明を求めようと決意したとき、ハドリアヌス帝が手を一つ叩いた。そのとたんすぐ横の茂みから二名の侍者が現れてひざまずく。
「話は終わった。宿舎に連れて帰れ。」
「仰せのままに。」
それきりあとも見ずに踵を返したハドリアヌス帝はすたすたと歩いて彼方の小神殿の中に姿を消してしまった。
「お供いたします。」
唖然としているカミュに声をかけた侍者はカミュが歩き出すのを待っているらしい。その時には物陰に潜んでいた衛兵たちも一斉にこの場を立ち去ってゆく気配がしているのだった。
この会見の主旨はいったいなんだというのだ?
明日の迎えの目的とはなんだろう?
自分と同年らしいアンティノーという人物に関係あるらしいのは確かだが、軍神アレスと見まごうばかりの神と思しき存在と自分がどうかかわりがあるのかカミュには想像もつかなかった。
侍者に聞くわけにもいかなくて黙って帰る道すがら、カミュの心は聖域の宝瓶宮に横たわるアクエリアスの元に飛んでゆく。この時代のスコーピオンがカミュの訪れを待ちながらアクエリアスの冷え切った身体に寄り添って温めていることだろう。
ルシウスが寝入ったのを確かめたら即刻聖域に跳ぶつもりのカミュが宿舎に戻ると、案に相違してルシウスに出迎えられた。
「まだ起きていましたか。遅くなってすみませんでした。」
「話は聞いた。大変なことになったな。まさかこんなことになるとは!」
「え?」
カミュが驚愕したのはそれからだ。
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