◇その54◇

「えっ? 聞いていないのか?陛下は君を新しい愛人にするおつもりのようだが?」
「そっ、そんな話はまったく出なかった!なぜそんなことに!私は困るっ!」
カミュは混乱した。こともあろうにローマ皇帝の愛人にされようとしているとは衝撃以外の何物でもない。
「しかし、さきほどアントニヌス様の側近の部下が来て私にたしかにそう言ったのだぞ。その結果、人手が必要なら新しい助手をつけようという話だったので、今のところは困ら ないからとお断り申し上げたところだ。」
「新しい助手の話はたしかに聞いた!でも私が皇帝のっ……そんなことは聞いていない!私が聞いているのは…」
それからカミュが思い出したのはアンティノーの彫像のことだ。彫像になるのは神々や歴代の皇帝というのが通り相場なので、まさか実在の、それも当代の皇帝の愛人が彫像にな る可能性など考えもしなかったが、あの軍神アレスよりももっと美しいとハドリアヌス帝自らが賛美していたアンティノーがハドリアヌス帝のかつての愛人だということがあるだ ろうか?
カミュは波立つ胸を抑えて聞いてみた。
「ちょっと尋ねたいのだが、アンティノーとは何者です?」
答えを聞くのが恐ろしい。 年を聞かれて二十歳だと答えると、ハドリアヌス帝はアンティノーと変わらないと言い、恋人はいないとの答えにアンティノーと同じだと言ったのだ。 アンティノーに比されていたのは明らかだが、今から思えば、その問答はあまりにも暗示的ではなかったろうか。
「アンティノーは先年亡くなった陛下の密かな愛人だ。いや、密かというよりも公然といったほうがいいかもしれんな。陛下はどんなときでもアンティノーをおそばから離さなか ったということだ。私が陛下とお近付きになったときにはすでにアンティノーはいなかったので直接会ったことはないが、たいへんな美形だったそうだ。名前を聞けばわかるだろ うが、むろん男だ。君には初耳かもしれないが陛下は男色を好まれる。」

   ああ、やはり………    
   男色って……そんなにはっきりと

ミロとのことを指摘されているような気がしてカミュはたじろいだ。
「マルクスも君があまりに美形なので悪い虫がつかないかと心配していたが、まさか陛下からお声がかかるとはな。女ではなかったのは意外だが、悪い虫ではないのは確かだな、 うん。」
ひとり納得をしているルシウスの前でカミュはまざまざと思い起こした。恋人はいないと答えたとき、ハドリアヌス帝はこう言ったのだ。
「それならますます都合がよい。私は身勝手な振る舞いはしたくないのでな。」

   まさか……まさかっ!    
   都合とは、私を愛人にする都合だというのか! そんなっ!

「それではあの……ビテュニアというのは?」
聞きたくなかったが訊かずにはいられない。予想が当たっていれば…
「ビテュニアはアンティノーの出身地のはずだ。君がさっき陛下にお目にかかったというカノプスは、かつて陛下が旅行されたエジプトの運河を模したものだと聞いている。アン ティノーは先年エジプトで川に落ちて死に、それをおおいに嘆かれた陛下はアンティノーを神格化して帝国中に彫像を建てられた。」
「えっ!」
そんな思い入れのある場所にカミュを連れて来させたハドリアヌス帝の意図は明らかだ。
「マルクスも注文を受けてアンティノーの彫像を幾つも作っている。あのころはローマ中の石工がかかりきりだったな。君がアンティノーを知らなかったのは、ニホンの存在がま だ公表されていないために彫像が送られなかったためだろう。」
いや、カミュがアンティノーを知らなかったのは、ハドリアヌス帝の事績こそ多くの資料から学んでいたが、その愛人関係の記述など目にしたこともなければ想像したこともなかっ たためだ。カミュにとってのハドリアヌス帝とは、ローマ五賢帝の一人であり歴史に名を残す偉人である。その人物の愛人、それも美貌の青年のことなどカミュが手に取る書物の 中には一切書かれていなかったのだから知らなくてもしかたがない。
不安が昂じたカミュはルシウスに意見を求め、ますます暗澹たる思いになった。ルシウスの意見では逃げようがないというのだ。
「恋人はいないと答えたのにもかかわらず、今さら前言を翻したら陛下に対して嘘をついたことになる。そんなことは有り得ない。陛下は君の事情をお尋ねになったうえで、お心 を決められたのだからな。」
「私はそんなこととは知らなくて…」
「ニホンにいる君の恋人にはほんとうに気の毒だと思うが、ここまできたらもうどうしようもないだろう。明日には迎えの使者が来るということだしな。」
「でも私はニホンに帰らなければならないし、そのためにはルシウス、あなたから離れるわけにはいかないのだし。」
悔しいが声が震えてしまう。思いもよらぬ成り行きでカミュはローマ帝国の虜囚になろうとしているのだ。それもハドリアヌス帝の愛人という最悪の立場である。動揺しないでは いられない。
「ニホンから来ていることを知られたくなかったので恋人はいないと言ったのだが、あのときに恋人がいると言っていたら、こんなことにならずに済んだのだろうか?」
今さら聞いてもなんの役にも立たないがカミュは念のためにルシウスに尋ねてみた。
「さあな?私には陛下のお考えはわからぬ。陛下とアンティノーとの出会いについては知らないが、たぶんアンティノーは名誉なことだと思ったのではないか?なにしろローマ帝 国の皇帝の寵愛を受けるのだからな。」

   寵愛って……私にはまったく名誉とは思えない!

カミュがこの逃れようもない過酷な運命の宣告に煩悶しているとルシウスが言いにくそうに言葉を継いだ。
「その……カミュ……たいそう言いにくいんだが、君は男色というものに対して知識はあるか?たぶん陛下は君にもアンティノーに対してと同じように振る舞われるのではないか と思うのだ。なにも知らないよりは事前に知っておいたほうが心の準備ができて、その事態に直面したときに少しでも気が休まるのではないかと私は思う。」

   その事態って、ああいう事態かっ!

情けなさに涙が滲むが、このままでいけばたしかにルシウスの言う通りになるのは確実だと思われた。同時に、ミロから毎晩のように聞かされる自分への賛辞が二分の一でも当たっているとすると、空恐ろしいことにハドリアヌス帝から格別の寵愛を受けることは確実な気がしてくる。
「いや、あの……そういうことに関しては友人に詳しい者がいて、いろいろと内情を聞かされているので。」
カミュはよく知っている。いや、知りすぎていると言っていいだろう。ミロに施される様々な技巧が思い起こされて身がすくむ。
「そうか、それならまだよかったな。なにも知らなかったらショックだからな。」
ルシウスは青ざめているカミュを案じていろいろと慰めてくれた。
「君としては不本意だろうが、陛下のお目に留まったからにはしかたがない。君の恋人には気の毒だとは思うが、どうしようもないことだ。」

   ああ、ミロ……帰れないだけでなく、私はこのままではハドリアヌス帝の…

「陛下と親密になれば君がニホンから来たことを伏せておく理由もないだろう。君とニホンで出会ったことは私が陛下にご説明申し上げるからなんの心配もない。もとより陛下はニホンのことについては報告を受けておいでなのだから、そのうちに陛下がニホンを視察されるときに同行して帰郷もできよう。そうすれば私と一緒にいて湯を介してニホンに戻る機会を待たなくとも大手を振って帰れるというわけだ。カルディアたちとはその時に会える。もっとも陛下がローマにお戻りになるときには、君もニホンを離れなければいけないが。」
ルシウスの口からニホンという言葉を聞くたびにカミュの望郷の念は掻き立てられる。ミロの待つ日本、しかしそこはこの時代には存在しない。カミュがミロの元に戻るには、ハドリアヌス帝ではなくルシウスの傍にいなくてはならないのだ。
「明日の朝食後に迎えが来るとすれば、君と親しく話すのもあとわずかということになる。ひとたび陛下のおそばに召されたら、私などが話しかける機会もあるまいからな。ここにはあと一週間は滞在する予定だから、その間は顔くらいは見られる。突然のお召しだが、なにごとも気の持ちようだ。」
カミュとしては今すぐにルシウスをカノプスに連れて行ってあのプールにもろともに飛び込みたい心境だが、それをしても時空転移が起こるとは限らないし、もしうまくいってもやがてローマに帰還したルシウスがカミュの行方を追及されるのが目に見えている。カミュを隠したと疑われたルシウスはよくて放逐、そうでなければ投獄されることが大いに考えられた。

   無理だ  もはや打つ手はない

重いため息をついたカミュは、しばらくルシウスと憂鬱な会話を交わしてから床に就いた。やがて隣の寝床から安らかな寝息が聞こえてきたことを確かめると、そっと身体を起こす。

   これが最後の聖域行きだ
   明日の夜からは自由な行動はできないだろう
   なぜなら……

暗がりの中で横たわるアクエリアスの青白い顔が浮かんだ。その横でカミュを待つスコーピオンの姿もだ。
唇を噛みしめたカミュが聖域へと向かった。