◇その55◇

「お待たせして申し訳ない。」
言葉少なにそう言ったカミュがアクエリアスの傍らに滑り込んだ。
「今日は遅かったな。ルシウスと一緒に元の時代に戻ったのかと気になっていた。」
カミュに場所を譲ったスコーピオンがほっとした顔をする。カミュが元の時代に戻るのは当然だと思いはするものの、その時期が早まってアクエリアスの蘇生が叶わなくなるので はないかと思うと気が気ではないのだ。
「そうではないですけれど…」
言葉を濁したカミュが小宇宙を高め、身に纏った聖衣が青白い光を帯びた。連日の介護の甲斐あってようやく危機を脱したアクエリアスは、まだ意識こそ戻らないものの身体に温かみが感じられるうになってきた。

   自発呼吸が可能になれば意識が戻るだろう
   水分と栄養を経口摂取できるようになりさえすれば……

しかし昨日までとは事情が違う。明日の夜にカミュがこの宝瓶宮に来ることはもう考えられない。
「スコーピオン…」
「どうした?今日は小宇宙が不安定だが、なにかあったのか?」
こともあろうに自分がハドリアヌス帝の愛人にされようとしていることをなにも知らないスコーピオンに話すのは気が滅入る。気が滅入るが、言わないで済ませるわけにはいかないのだ。
「……実は事情が変わって…ここに来るのは今日が最後になるかもしれないのです。アクエリアスは助かる運命にあるので、私がいなくてもやがて目覚めることと思いますが。」
「えっ…それはつまり、明日のうちに元の時代に戻る目処がついたということか?時空転移というやつは前触れもなく突然に起こるものだと思っていたが。」
「いや、あの……」
あまりにも情けない理由を言わねばならないことにカミュはたじろいた。黄金聖闘士ともあろう者が唯々諾々と他人の愛人にされようとしていると聞いたらスコーピオンはどう思うだろ う?
そんな驚天動地の話をするときに背を向けていられるのが唯一の救いだ。
「不本意だが明日からハドリアヌス帝の…身近に侍することになった。」
カミュとしては散々迷った末に選んだ語句だったのだが、当然スコーピオンには通じない。
「側近に取り立てられるのか?なんでまたそんなことになったんだ?見識を買われて政策上の助言を求められたとしても、歴史を変えるわけにはいかないから建設的なことは何も言えないはずだろう? 」
「いや、そうではなくて……気に入られたということだ。」
「ふうん…そうだとするとルシウスとは引き離されるのか?それじゃ、ルシウスが時空転移するときに間に合わんだろう。そいつはまずいな。それにしても、どうしてハドリアヌスなんかと接触したんだ?ローマ皇帝の外出の行列をうっかり横切って見咎められたのか?そんな間抜けなことをするとは思えな いが。」
たくさんの質問や感想に個別に答えるのはかえって事実を遠ざけるばかりだと悟ったカミュは覚悟を決めてことの次第を語ることにした。
むろん言いにくい。出来るものなら言わずに済ませたい。他人の噂話でさえこうした種類の話は避けて通ってきたのにまったくなんという羽目に陥ったものだろう。
「アンティノーを知っていますか?」
「アンティノー?いや、知らんな。それは誰だ?」
あいにくスコーピオンの知識にはアンティノーの名前はなくて、カミュはそこから説明せねばならなかった。
「するとハドリアヌスの愛人ってわけか。ローマ皇帝は妻帯しないことが多いから、そういうこともあるだろう。なんでもローマ女は密通することが多いので生まれた子が自分の子かどうかわからないら しい。そのくらいならいっそのこと、子は作らずに後継者には優秀な人間を選んだほうがいいという考えだそうだ。そのアンティノーというのは妻の代わりだろう。君の時代は知らんが、男色は珍しいことではない。 浮気な妻よりは自分に忠実な若い男を選んだのだな。わからんでもないが。」
「それで……そのアンティノーの後釜として私に白羽の矢が立った。」
「なんだとっ!」
スコーピオンが吠えた。
「おいっ、いまなんと言った?」
背後でスコーピオンが気色ばんだのがよくわかる。驚愕はすぐに怒りにとってかわってカミュは背後から二の腕を掴まれた。
「それはどういうことだっ?なぜハドリアヌスに会った?接点なんかあるはずがないだろう!」
「前にも言った通り、ルシウスは浴場技師だ。元老院議員やハドリアヌス帝の信頼も篤く、今日は朝からティヴォリの別荘に呼び出されたので私も同行し、そこでハドリアヌス帝に会った。」
「それでいきなり見初められたのか?なんでそうなるっ?そんな馬鹿な話は断れっ!」
「ルシウスと一緒にハドリアヌス帝に会った後、私だけもう一度呼びだされたが、まさかそんな意図があるとは思わなかったので少し話をしただけでその場は終わった。しかしハドリアヌス帝の心中では私を……愛人にすることが決まったらしい。そんなことを勝手に決められて心外だ。……むろん断れるものなら断りたいが、相手はローマ帝国の皇帝だ。向こうがその気になっているのに今さら断わったりしたら只ではすむまい。ルシウスに迷惑をかけることはできない。」
「そのときはそのときだ!それにルシウスと一緒にいないと帰れんぞ!それでもいいのか!」
「むろん帰りたい。ここは私の世界ではない。そもそもハドリアス帝の傍にいても歴史を変える可能性のあることは何一つできないのだ。私はローマ帝国の権力を掌握している人物の傍らにいながらその言動の一切に目をつぶり、ただそこにいるだけの存在になるだろう。何も聞かず何も言わない人形のような存在だ。それは私にとっては苦痛でしかないが、逃れるすべはない。」
考えれば考えるほどカミュは自分の陥っている苦境が想像を絶するものであることを思い知らされた。

   目の前で歴史が動くときに耳をふさぎ口を閉ざしていなければならぬのだ
   そして夜になれば……そのくらいならいっそ……

「それだけじゃないのはわかっているだろう!ハドリアヌスの…愛人になるんだぞっ!それがどういうことかわかっているのかっ!アクエリアスともあろう者がそんな……俺は認めんからな!誰がそんなことをさせるか!」
二の腕を掴む力が増した。カミュの心もきりきりと痛む。

   ああ、これはまるでミロだ
   時代も人も違うというのに……ミロ…

「お前だって嫌だろう!好きでもない男に自由にされていいのか!?そんな馬鹿な話があるかっ!元の時代に帰れないままでずっとそうしているつもりか!」
「もし……もし私がおのれ可愛さにその場を逃れたとしたら、ルシウスは私を逃がしたと疑われて責めを受けるだろう。さらに私と知り合った経緯を追及されて納得のいく説明をできないためにハドリアヌス帝の怒りを買って投獄されるのが目に見えている。そして私はこの時代にとどまったままで歴史を変えないようにどこかに身をひそめているしかない。かといって行き場がないからとこの聖域に来たら聖戦の帰趨にかかわることになりかねぬからそれもできない。」
「それはっ…」
「どちらに転んでも帰れないのなら、せめてルシウスを守ってやらねばならぬ。覚悟はできている。もう逃れようがないのだ。私は運命を甘受する。」
「だめだっ!だめだっ!」
カミュの決意に理屈で反論できないことを悟ったスコーピオンがぎりぎりと唇を噛む。沈黙が降りた。心情を吐露したカミュが気持ちを静めて再びアクエリアスのほうに注意を向けた時、
「おい……俺にはアクエリアスの考えることくらいすぐにわかる。お前、ほとぼりが冷めたら死ぬ気だな。」
スコーピオンに図星を指された。