◇その56

「お前、ほとぼりが冷めたら死ぬ気だな。」
スコーピオンに図星を指されたカミュが目を伏せた。

   どうして生きていられよう
   この時代にいても歴史を変えるようなことは一切慎まねばならぬのだ
   人の役に立つならともかく、私の存在自体が害になることは明白だ
   帰還もできず生き甲斐を見つけることさえ許されていない身で
   どうしておめおめと生きていられようか
   ルシウスがこの地を離れたら
   なるべく早い時期に不審を抱かれぬ方法で命を断とう

しかし、その覚悟は早くもスコーピオンに見抜かれていたようだ。
「そんなことは許さんからな!なんとかして方法を見つける!そこで待っていろ!」
カミュが あっと思った時にはスコーピオンは風のように部屋を出て行ってしまった。あとを追おうにもアクエリアスを放っておくわけにもいかず、いったんは起き上がりかけたカミュも諦めるしかなかった。
慰められるよりはましかもしれないが、ほかの黄金に相談されるかもしれないことを思うと恥ずかしさに身がすくむ。これまでも、そしてこれからもこのような浅ましい境遇に陥る黄金がいるはずもない。しかしそれさえもやがては歴史の中にうずもれるのだ。

   そう思わねばやっていけない
   大きな歴史の流れで見れば私の思いなど瑣末なことだ

それきりスコーピオンは戻って来ず、宝瓶宮の闇の中でカミュは悶々とした思いを抱きながらアクエリアスを温めることに専念した。目覚めたらゆっくりと話をしてみたかったのに今ではそれもかなわない。目覚めた時の第一声、静かに開く瞳の色。それはかつて冷たく凍りついていたカミュを必死に蘇生させたミロが味わった歓喜を教えてくれるに違いない。

   私はやがて死ぬから、代わりに生きてくれ
   この聖戦を勝利に導くために
   そしてスコーピオンに再び力を与えるために、あなたの力が必要なのだから
   今から思えば、私の時代の聖戦で微力ながらも力を尽くせたことが慰めだ

千々に乱れる心はカミュを様々な思いに駆り立てた。
明日の朝食を済ませたらハドリアヌス帝の傍に呼ばれることになっているが、果たしてどのようにふるまえばいいのか皆目わからない。事前にできることといえば、ルシウスにハドリアヌス帝の性格や考え方をできるだけ聞いておくくらいのものだろう。過去の出来事や側近の情報も必要だ。そのほかローマ市民なら誰でも持っているはずの知識を可能な限り仕入れておく必要がある。
そもそも皇帝の愛人という立場はどのような位置を占めるものなのか、それも未知数だ。周囲から蔑視されるのか、はたまた尊重されるのか、寵愛の余禄にあずかろうと取り入ってくるのか、それともいないものとして空気のように無視されるのか?
むろんハドリアヌス帝との関係がいちばん重要であることは言うまでもない。

   怒らせてはならない
   かといって、気に入られ過ぎてもいけない
   ひたすら目立たず 注目を集めないようにせねばならぬ
   できることなら空気のような存在になりたい

生まれ育ちのことももっと聞かれるだろうし、ローマの治政についてもなにか意見を求められるかもしれぬ。幸か不幸か、知性が無いようにはとても見えないだろうカミュの顔立ちと立ち居振る舞いがかなり高度な会話をハドリアヌス帝に期待させることは間違いないが、あいにくカミュがそれにこたえることはできないのだ。なにげない一言が歴史を変えることになったら一大事だ。
ハドリアヌス帝の傍にいながらおのれの知的好奇心を無理やりねじ伏せることも苦痛だが、唐突な質問に不審を抱かれぬような凡庸な返答ができるかどうかも問題だ。実際にこの時代のことはわからないことが多すぎるのでまともに答えることは難しく、その場その場をなんとかして無難に乗り切れるよう祈るばかりだ。万が一 素性を怪しまれた場合にはルシウスに累が及ぶのが恐ろしい。
ルシウスとの出会いについていくら口裏を合わせても、あの生真面目さでは厳しい詰問を受けたらいずれ辻褄が合わなくなるだろう。呼び出しを受けたルシウスがカミュとの出会いを聞かれて返答に窮するのが目に見える。最初こそはぐらかしていても、我慢しきれなくなったルシウスはじきにニホンのことを持ち出すだろう。その結果は言わずもがなだ。

   この時代にはニホンという地域も属州も存在しない
   その場しのぎにそう言ったのはこの私だ
   しかしそれを信じるルシウスは自己の主張を曲げず皇帝の不興を買うだろう
   私にはルシウスを守る責任がある

さよう、ルシウスの命運はまさにカミュの行動いかんにかかっていたし、ルシウスが取り調べを受けるときにはむろんカミュも同罪だ。その場合は身元の確かなルシウスと違っていっそう厳しい詮議が待っているに違いない。この時代の尋問が生易しくないのは容易に想像がつくが、そんな最悪の事態は誰しも考えたくはないものだ。ローマ時代の拷問を受けるくらいならコロッセウムで猛獣と対峙させられるほうがはるかにましだろう。少なくとも勇敢に闘って名誉ある死を選ぶことができるに違いない。
そして昼を無事に切り抜けたとしてもかならず夜がやって来る。

  「ああカミュ、お前の身体は最高だよ。誰にも渡したくない。」
  「またそんなことを……」
  「ほんとうだ。どこの誰でもお前を抱いたら夢中になるに決まってる。」
  「そんなことがあるはずはない。私にはお前だけだから。」
  「それはわかってるけどさ。たとえばの話だ。お前に溺れない奴なんていない。
   だから俺は心配なんだよ。お前を誰にも渡さない。」
  「ミロ…」
  「大丈夫だよ、心配することはなにもない。いつも俺の腕の中にいればいい。」
  「ん……」

毎晩のようにミロに言われた台詞がよみがえる。カミュ自身にはそんな認識はまったくないが、ミロの言うのが事実だとしたらハドリアヌス帝がカミュに溺れることがないとは言 えないのだ。いや、そんなことに自信を持ちたくはないが、半分以上はそうなるような気さえする。 ハドリアヌス帝の性癖はまったくわからないが、アンティノーという先例もある以上、それなりの愛の巧者ではあるのだろう。 カミュは暗澹とする。

   そんな……そんなことは絶対にいやだ!
   どうしてこの私がそんな憂き目に!
   私に無関心でいてもらうためにはどうすれば?

しかしこれまでミロとのそうしたことに自然体で臨んできたカミュには、閨中でハドリアヌス帝の興味を掻き立てないようにするにはどうすればよいかを想像することさえ難しい 。ミロにすべてをゆだねてきたカミュはその種の技巧とはまったく無縁に過ごしてきたのだ。 積極的なことも消極的なことも、意図的におこなってきたことは一度もなかったというのが実態だ。

   もしもミロの言った通りにハドリアヌス帝が私に夢中になったら……

宝瓶宮の薄闇の中でカミュは恐怖した。必死に振り払おうとしても次から次へと恐ろしい想像が頭をもたげてくるのだ。いくらミロを恋しく思っても、その手ははるか遠く二千年の先にある。
どんなに勇気を鼓舞しても太刀打ちできないことが世の中にはあることを知ったカミュはおのれ以外に頼るもののない心細さに打ちのめされた。凍気をもって闘うならばゆるぎない自信があるが、こうしたことにはカミュは弱い。

   パンドラの箱を開けても希望が残っていたというのに
   私にはそれさえ残っていない

どんなに知恵を絞ってもカミュはこの事態を回避する手だてを見出すことはできなかった。 閨房で嘆くことしかできないだろうカミュは、それさえもがハドリアヌス帝を喜ばせることすら想像できないのだった。
スコーピオンは戻ってこない。カミュは深い憂愁に沈んでいった。