◇その57

スコーピオンが戻ってきたのは東の空が明るくなりかける頃だった。
考えすぎて一睡もできずにいたカミュは背後から聞こえた声にほっとするよりも、頭上に斧が落ちかかるときがさし迫っていることを教えられたような気がしてますます頭が冴えてくる。心を開いて人と話をするのはこれが最後かもしれないという不吉な考えが心をよぎり、逃げ道のない苦境に陥っていることに我ながらぞっとせずにはいられない。
「遅くなってすまなかった。もっと早く来たかったんだが、ちょっと面倒があった。」
いや、ちょっとどころか、スコーピオンが在宮の黄金を集めて事の次第をざっと打ち明けようとした時にアテネ郊外で冥界軍の動きが顕在化し、一気に戦闘に突入したのだからとても面倒などというレベルではなかったのだが。必要最低限の人数を聖域に残し、総力戦で敵を殲滅して十二宮に戻ってくると夜が明けはじめていたというタイミングだったのだから、カミュを救う方策はまだ何も見い出せてはいないというのが現状だ。
「ともかく戻れ。ルシウスがお前を逃がしたと疑われたらまずいことになる。今夜までになんとか策を寝るから俺を信じて待っていろ。」
そう言うスコーピオンはなにげないふうを装ってはいるが、黄金の聖衣にまとわりついている沸き立つような小宇宙は ついさっきまで苛烈な闘いが行われていたことを如実に示す。

   今夜は私がここにいられたからスコーピオンも戦闘に参加できたが
   今日からはそれもない
   聖域がそのぶんだけ手薄になってしまう
   私の存在はほんとうに何の意味もなくて…

大事な時に何の役にも立たない不甲斐なさがカミュは口惜しい。そのうえ自分を助けることに時間と人手を割くなど、申し訳ないを通り越してかえって邪魔になるとしか思えない。
「その気持ちはありがたいが、とうてい無理だろう。私個人のことはもういいから、聖戦のことだけを考えてほしい。」
「何を言う!お前を無傷のままで還さなくてはアテナに顔向けができん!それに、命の恩人のお前をハドリアヌスの愛人なんかにさせたら、こいつが目覚めた時に俺が殴られちまうからな。」
蘇生したアクエリアスが事情を知りたがるのは当然で、冷たく凍えていた命を助けてくれたもう一人のアクエリアスが時のローマ皇帝の寵愛を受けている最中だなどと知ろうものならどうなることか?

   まさか殴られはしないだろうが、完璧に軽蔑されるのは確実だ
   「そんなことを指をくわえて見ていたというのか!見損なったぞ!」
   「だってどう考えても不可抗力で…」
   「弁解無用!ええい、お前には任せておけぬ!すぐに助けに行く!」
   「まだ起きるのは無理だ!病み上がりだろうが!」
   「それでも私は行く!いいからその手を放せ!」
   うん、きっとそうなる
   アクエリアスが蘇生するのは嬉しいが、
   カミュがハドリアヌスの愛人になるという未来予想図は願い下げだ
   俺たちみんなのために、なんとしてでもカミュを救わねばならん

素早くカミュと入れ替わったスコーピオンがそっとアクエリアスの頬に触れた。かすかな赤みが夜明けの光の中に見て取れる。
「さあ、早く行ってくれ。繰り返して言うが絶対に希望を捨てるな。早まるんじゃない。夜まではまだ時間がある。ハドリアヌスには指一本触れさせん。」
「わかった。感謝する。」
頷いたカミュが聖衣櫃のある部屋に向かおうとして足を止めた。
「それから……上手くいかなかったときには私はもうここには来ないものと思ってほしい。そんな身では………とても聖域に立ち入ることはできないから。」
「……わかった。でもその心配はないと思ってくれていい。俺は絶対にお前を救ってみせる。」
「ありがとう…では。」
カミュが去った後、スコーピオンがアクエリアスを抱きしめながらささやいた。
「なあ、お前もそう思うだろ。どうしてあいつを生きながらの地獄に堕とせる?無事にあいつを還さなきゃ、二千年先で待ってるやつに俺がスカニー喰らっちまうじゃないか。」
くすっと笑ったスコーピオンが静かな小宇宙を漲らせ始め、部屋は再びの静寂に戻った。

寝所のある建物の近くの木立ちの中にテレポートしたカミュがそっと部屋に戻るとルシウスがいない。まさか自分を探しに行ったのではないかと不安になっていると外から聞こえてきたのはルシウスの足音だ。
「カミュ、戻ってたのか。やっぱり朝の散歩はいいな。」
「ああ…ほんとに。ルシウスはどのあたりの散歩を?」
「私は昨日見てきた浴場の周囲を回ってきた。陛下から注文のあった増改築の案を練っていたのだが、おかげでいいアイデアが浮かんだ。」
「それはよかった。朝の空気は頭を冴えさせるものだというし。」
「まったくだ。」
カミュの姿が見えなくともルシウスは何も心配しなかったらしい。この生真面目な設計技師は自分を残してカミュが逃亡する可能性など想像もしないのだろう。
二人の話し声を聞きつけた奴隷が洗面のための湯を運んできた。

「そうだな、陛下はローマでは政治向きのことでいつも忙しくしておられるが、私がここでお見受けした限りでは別荘では寛ぐことを重視なさっておいでのようだ。」
「するとローマから早馬が来て深刻な政治の話をするようなことはない?」
「そんな話は聞かないな。帝国はこのところ平和が続いている。陛下は戦争はお好みではない。不安定だったメソポタミアやアルメニアを放棄して国境の安定化を図ったのは大英断だと思う。平和なくしては帝国の繁栄はないからな。」
「それはたしかに。」
奴隷の給仕を受けながら朝食を摂る間にルシウスからいろいろな話を聞いたが、側近の力関係については断片的なことしかわからなかったし、奴隷のいる前であまり打ち割った話もできにくい。
「あとは自分たちでやるから。」
と奴隷を去らせてから、やっと掘り下げた話ができた。
「アンティノーは陛下から大事にされたと思う。13歳ごろにビトゥニアで陛下に見初められたというような話を聞いたことがある。よっぽどきれいだったのだろうな。」
「13歳!」
「死んだのは二十歳くらいだったんじゃないか。たしか、陛下の身近にいる人間が先に死ねば治世が長く続くというので自ら進んで川に身を投げたらしい、という噂があったな。」
「えっ!それは本当だろうか?」
「さあ?私にはわからん。ともかく陛下はたいそう悲しまれて……そうだ、この別荘にもアンティノーのためにささげられた神殿があるぞ。」
「神殿を……それはすごい。」
「私はそばを通っただけだが、君は案内されるかもしれないな。なにしろあのアンティノーの神殿だから素晴らしく優雅で美しいぞ。」
「そうなのだろうな…」
間違っても自分のための神殿など造ってほしくはないが、計画通りに遠くない未来に命を絶つとするとその懸念が無きにしも非ずでカミュはますます気が滅入る。人類史を変えるまでには至らないかもしれないが、ローマ建築史に新しい一ページが加わることは間違いない。

   そんなものが発掘されて、そこに私の名が刻んであったりしたらミロは……

くらくらと眩暈がするようだ。そんなことになったら、せっかくスコーピオンに刻んでもらったコッロセオのメッセージも意味がない。
「君が見たのはこの別荘のほんの一部だけで、全体はとてつもない広さだ。陛下のおそばにいればそのすべてをたっぷりと見ることができるだろう。君は建築に興味があるようだから、その点では私の傍にいるよりもはるかに有利だ。むろん、そのほかの点では……」
言葉を探したルシウスがカミュから目をそらす。
「君にはさぞかし不本意だろうとは思うが、物事を悪いほうばかりに考えるのはよせ。陛下は立派なお方だ。思慮深く、学問に造詣も深い。それは最初は慣れないだろうが、そのうちに君も陛下をお慕いする日が来るだろう。そうなれば何も悩むことはない。最高の待遇を受けることができるのだから、そう悪くもないと思うぞ。」
「はぁ……」
カミュとしてはハドリアヌス帝が速攻で自分に飽きて、ぽいっと別荘の外に放り出してくれるのが一番いいのだが、そんな都合のいいことが起こるとも思えない。

   仮にそうなってくれたとしても、それまでには幾晩かあるわけで……
   あぁ……

ミロの台詞がよみがえる。
「どこの誰でもお前を抱いたら夢中になるに決まってる。お前に溺れない奴なんていない。」
気落ちしたまま朝食を終え、しばらくすると兵二名を伴った侍者がカミュを迎えに来た。


                         


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