◇その58

天蠍宮に戻ったミロはちょっと迷ったもののサガを訪ねて事情を話しておくことにした。
カミュがいますぐに帰ってくればいいが、何日も不在だったり、不幸にもローマ帝国に居続けることになったりしたら、黄金聖闘士の一翼が欠けることになる。 いまのところ地上の平和は保たれており何の心配もないが、宝瓶宮を護るべきカミュが現時点でこの世のどこにもいないというのは由々しきことなのだ。
「なんだと?それはほんとうか?」
ミロの話を聞いたサガがさすがに顔色を変えた。にわかには信じがたいがミロの真剣な様子からただ事ではないと悟ったのだ。
「事実だとしたらたいへんなことだ。すぐにアテナに申し上げねばならん。一緒に来てくれ。」
もとよりコロッセウムにはそんなに急いで行ってもしかたがないのだ。日本から飛行機に乗ってくるカルディアとデジェルはまだ宿も出ていないだろうし、カミュの伝言がコロッ セウムにあるだろうことも推測の域を出ず、首尾よく見つけられてもそれによってカミュが帰還する可能性が高まるわけでもないのだ。
「私ではとても無理だが、アテナならこの地上のどこかにカミュの小宇宙があればきっとおわかりになるだろう。いないことがわかったからといってなんの助けにもならないが、 起こってしまったことの確認はできる。」
「もしも…いつまで経ってもカミュが戻って来なかったら……どうしようもないんだろうな。」
言ってもしかたのないことだとはわかっているが、あまりの不安にいてもたってもいられないミロは口に出さずにはいられない。
「それは……」
アテナ神殿に向かう途中でサガが絶句した。カミュがいないという圧倒的な事実に打ちのめされているミロになにを言っても気休めにもならないだろう。聖域にとって貴重な黄金を一人失うのはたしかに大きな損失だが、ミロが失うのは唯一無二の存在であることをサガはよく知っている。
「私の思うに、アテナはこの件についてなにかご存知かもしれない。」
「えっ!それはどういうことだ?」
「過去に行ってしまったカミュは帰還するチャンスがめぐってくるのを辛抱強く待ちながら、その一方で歴史を変えるような可能性のあることは一切しないように極力気をつけて、ひたすら目立たずおとなしくしているだろう。しかしそのカミュの存在に気が付く者がいるはずだ。」
「いったい誰が気付くんだ?俺にはなんのことかさっぱりわからんが。」
「目立たないように身をひそめていても、あのカミュが知的好奇心を抑え切れるはずがない。帰還できることを信じてチャンスを待ちながら目の前にある現実のローマ帝国の膨大な 歴史史料を心の中に刻もうと一分一秒も惜しんで活発に頭を働かせているはずだ。」
「たしかにカミュならそうするだろう。だがそれがどう関係するんだ?」
サガの言わんとしていることがミロにはわからない。この年長の聖闘士はなにを言おうとしているのだろう?
「今から二千年前のローマ帝国は地中海沿岸に広範な領土を広げていた。このギリシャもむろんその範疇だ。当時のローマは世界の中心であり、もっとも栄えた都市で総ての富と 権力が集中していたことだろう。ゆえに聖域も常日頃からローマの動向に目を向けていたことになる。」
「つまり聖域がカミュに気付いたかもしれないということか?」
「そうだ。むろん、二千年前にも聖域が存在するだろうことをカミュがあらかじめ予想していれば不用意に接触して歴史に影響が出ないように細心の注意を払って小宇宙を抑え込むだろうが、第一級の歴史的史料の真っ只中に突然飛び込んだカミュはそこまで考えが及んでいないかもしれぬ。その場合はカミュの小宇宙を聖域が捉えるのはたやすいだろう。」
「たしかに。カミュなら歴史を変える恐れがないかぎりは積極的にパルテノンや皇帝の住居の中に侵入して現地調査をやるだろうな。いつ帰還するかわからないんだから、この機 会を最大限に生かして知識を殖やそうとすだろう。テレポートの一つでもした日には盛大に小宇宙を発散させることになる。」
これはミロには新しい観点だった。流石はサガ、目のつけどころが違う。
「歴史を変えるのを恐れるカミュが聖闘士の接近に気付き逃れようとしても、聖域側は突然ローマに出現した未知の小宇宙の出所を探ろうとしてカミュに接触を試みるだろう。」
その結果によってはカミュは聖域まで来たかもしれないというのである。
「カミュが二千年前の十二宮に来たというのか!う〜ん、それは…」
「かもしれぬ、という話だ。仮定に過ぎない。しかしその可能性はある。その場合は当時のアテナ、または聖闘士がカミュの来訪について記録を残しているかもしれない。」
「だといいんだが。しかしそんな古い記録があるのか?聞いたことがないが。」
「教皇の間の古い書庫になにかあるかもしれないし、もしかしたらアテナになにか口伝のような形で伝わっていないとも限らない。我々はそのことをお尋ねしにいくのだ。」
黄金が一人行方不明になっていることを報告するのは当然だが、サガはそれだけで終わらせるつもりはないのだった。

「話はわかりました。先ほどからカミュの小宇宙が消えたので案じていたところです。」
ミロから事情を聞き取ったアテナが眉をひそめた。
「残念ながらその件についてはなにも心当たりがありません。代々のアテナは会うことがないので直接的な引継事項というものは存在しないのです。もちろん古文書の中になにか記述してあるかも知れませんが。」
「そうですか…」
ミロは落胆した。サガの建設的な推測を聞いて少しはほっとしたのだが、カミュが聖域に来たことが記録に残っていないのでは単なる希望的観測に過ぎないのだ。
「ではミロは予定通りコロッセウムに向かい、カミュの伝言を探してくれ。私は書庫を調べてみよう。」
頷いて立ち上がったミロをアテナが呼び止めたのはその時だ。
「お待ちなさい、ミロ。コロッセウムのほかにもカミュの伝言がありそうな場所の心当たりがあります。」
「え?」
にっこりと笑ったアテナが告げた言葉がミロの心に希望の灯をともした。

「ほんとにこにあるとしたら嬉しいんだが。」
久しぶりに宝瓶宮に足を踏み入れたミロが期待を込めてあたりを見回した。
アテナの考えでは、もしカミュが聖域に来たのであれば守護宮のどこかに未来への伝言を遺したかもしれぬ、というのであるが、サガは首をかしげた。
「しかし、当時の聖闘士たちがそんなことを許すでしょうか?十二宮といえば今でも神聖な場所ですし、神話が息づいていた二千年も前の時代ならなおさらでしょう。神の領域と して扱われていただろう場所に伝言を書き記そうとは私たちでも思いつきませんし、現にどの宮でもその種のメモや文字を見たことはありません。ましてや部外者のカミュにそんな破格なはからいをするのも不自然なように思えます。」
そう言いながらサガの胸中に かつてアイオロスが人馬宮の壁面に書き残した言葉が浮かんだがとても口に出せるものではなかった。あの緊急事態にはやむを得なかったことだったし、その原因を作った張本人のおのれの行いは万死に値する。うつむいたサガはひそかにおのれを恥じた。
「いいえ、カミュが聖域に来たとすれば黄金聖闘士に等しい力を持っていることを認められたということになります。その理由を説明するためにカミュはやむなく自分の素性を明かしたのではないでしょうか。もう一人のアクエリアスとしてカミュはそれにふさわしい待遇を受けたことでしょう。」
「なるほど。それなら二千年先の私たちに伝言を遺したいという希望も聞き届けてもらえそうですね。」
アテナの慧眼恐るべしである。
そこでミロはアテナに示唆された通りに宝瓶宮にやってきた。 サガは教皇庁の職員の中から古文書の扱いに慣れた者を募って書庫の調査に出向いていったのでミロ一人では手に余る広さだが、カミュからの伝言を他人には発見されたくないのである。

   もしかしたらカミュから俺への最後のメッセージかもしれないからな
   ほかのやつに最初に読ませるわけにはいかん

縁起でもないが、その可能性を考えないわけにはいかないのである。 難しいことはつとめて考えないようにしてミロはさっそく調査にとりかかった。
「まさかホールや廊下ではあるまいし、天井や床というのもないだろう。」
カミュが伝言を残しそうな第一の場所は寝室だが、壁に寄せてある幾つかの家具をどかして目を皿のようにして探してもなにもなかった。次に期待の持てそうな居間もまたしかり 。
「俺がカミュだったらどこを選ぶ?いかにも俺が簡単に見つけられそうな場所といえば…」
カミュの気持ちを考えながらミロがやってきたのは図書室だ。本好きのカミュならいかにも選びそうだし、記録を保存するという目的を持つ図書室はいかにもそれらしい。ただしこの部屋の壁は入口のドアと腰高の窓以外は全て背の高い本棚で埋め尽くされている。
「ちょっと骨だが、やるしかあるまい。そもそも目立つようなところにあればとっくにカミュが見つけて首をかしげてるはずだし、その場合は俺にも見せただろうな。」
宝瓶宮の壁のどこかで意味不明なメモを見つけたという話は聞いたことがないので、カミュも存在を知らなかったのだとしか思えない。
ほんとうに伝言があるかどうかも定かではないままに、ぎっしり詰まった本を抜き出して中央のテーブルに積み上げると、からっぽになった本棚を手前に引き出して後ろの壁を調べ ることを繰り返す。壁の二面を調べ終えたミロが唯一の窓のある壁面の調査に取り掛かった。
徒労に終わりそうな気がしたミロがそれでもどっしりした年代物の書棚を引き出して後ろの壁を覗き込んだとき、床から50センチくらいのところになにやら文字列が見えた。ドキッとして急いで顔を寄せて目を凝らす。何度も読み返し、浅く刻まれた文字を指でなぞってそれを書いた人の姿を思い描こうと努力した。
「これって……どういうことだ?なにを意味してる?」
狂おしいほどの時の流れが二人の間に無情に立ちはだかっている。ミロがぎりぎりと唇を噛んだ。
「カミュ!戻ってこい!俺はここにいる!」
冷たい床に膝をついたまま、ミロは文字の向こうに見え隠れするカミュの影を追っていた。