◇その7◇

宿帳はミロが代わって書いた。カウンターの向こうの美穂に二人を紹介する。
「カルディアと、こちらがデジェル、ギリシャの友人だ。日本語がわからないし、日本のこともなにも知らないのでよろしく頼む。いつも一緒にいるから問題はないと思けど。」
「かしこまりました。お夕食はいつもの時間でよろしいですか?」
「うん。その前に風呂に入るからちょうどいいだろう。今日のメインはなにかな?」
「黒毛和牛の和風ステーキでございます。」
「ああ、それ、いいな!栄養がつきそうだ。」
メインが魚介類の時にはミロとカミュには特別にステーキがつくし、今夜のようにステーキがメインならおかわりがつくのは定番だ。若い二人には並みの日本人向けの量では足りないのである。
「それからデジェルは生魚が食べられないので、なにか他のものを頼みたい。出来ようか?」
「はい、板場に申し伝えます。」
心臓移植を受けた者は免疫抑制剤を飲んでいる関係で、感染症にかかると重症になりやすい。そのため日常生活にも厳重な注意が必要で、生肉や生魚も食べないようにとの指導を受けている。術後三ヶ月はとくに免疫抑制剤の使用量が多いので感染症にかかる可能性が高く、カルディアが三ヶ月も入院していたのはそれを案じたアテナの指示によるものだ。退院しても帰る自宅がなければ健康管理はとてもおぼつかない。
「それから脂肪分もできるだけ控えなきゃいけないんだけど、ステーキのソースはなに?バター醤油だと、ちょっと困るな。」
「今日は大根おろしの和風ソースでございますから、大丈夫かと思いますが。」
「ああ、それならいいね。すまないけど、カルディアのはこれからもそれでよろしく。」
「かしこまりました。」
天麩羅あたりを食べさせられないのはちょっと残念だが、グルメよりも体調管理のほうが重要だ。肥満や高脂血症は慢性拒絶反応を引き起こす要因となるので注意せねばならない。心臓移植が成功すればすべてが普通になるというものではないのだ。
「荷物はとりたててないし、俺が案内するからいいよ。あとでお茶だけ持ってきてくれればいいから。」
新来の二人が持っているのはほんの少しの着替えと手回り品を入れたバッグだけだ。とても、はるばるギリシャから来て北海道にしばらく滞在する旅行客とは見えないのだが、美穂もそんなことでは驚かない。聖闘士慣れしているのだろう。
離れへと向かう回廊を歩きながらこの宿の説明をするが、いちばん大事なのはなんといっても温泉だ。
現在のギリシャにはたくさんの温泉があって、治療目的で利用されているところが日本とは異なるが、はたして243年前はどうだったのだろうか。日本の温泉のことをあれこれと説明しながらミロがデジェルに尋ねる。
「そのころも温泉って、あった?」
「火山のある島で湯が沸くことがあるのは知っているが、それに入った話は聞いたことがない。」
「俺なんか、そもそも湯に入ったことがない。入院していたときの入浴もシャワーだけだしな。」
手術後1週間してからシャワーが許可されて、胸の傷はなるべく見ないようにしながら浴びたシャワーの気持ちよさにカルディアは感動を覚えたものだ。
教えてもらったとおりに恐る恐る蛇口をひねると熱い湯が勢いよく出てきて、その驚きといったらなかった。水道からきれいな水が出てくることにもいまだに驚くというのに、適温の熱い湯を身体に浴びるとは!しかも好みに合わせて温度や湯量の調整まで出来るのだ。
シャンプーと石鹸の気持ちよさにも唖然とする。入浴前にカミュから説明を受けていなかったら、なにもわからなかったろう。ずっと付き添っているデジェルにも 「最高だったぜ!」 と何度も話したほどだ。
それでも、退院が近くなって浴槽への入浴が許可されたときには、それまで湯に浸かった経験がなかったため結局シャワーで済ませることにした。入浴に憧れている日本人とは違って、湯に肩まで浸かって心身ともに寛ぐという欲求はなかったし、赤々とした胸の傷を湯に浸すことがさすがに怖かったのだ。
その傷も退院直後に若いアリエスに治癒してもらい、いまは何の痕跡も残ってはいない。
「それで、温泉が身体に良いというのは本当か?」
心臓を移植してからというもの、カルディアもおのれの健康のことを真剣に考え始めている。以前は死に場所、死に時を求めていたようなものだったが、今は違う。
アテナの大いなる恩寵でこの世に再び生を受け、なおも抱えていた心疾患を以前はとても考えられなかった方法で治すことが出来たのだ。胸を大きく切り開いた手術の痕こそ治癒してもらったが、この胸の中で生き生きと脈打っている心臓は名も知らぬ他人のもので、しかもその提供は無償の行為だというのだ。まだまだ数は少ないが、自分の死に際して、移植のために臓器を提供するという行為が社会の中で認められているという。
「心臓だけじゃないぜ。目の角膜はずっと前から死後に提供するシステムが構築されていて、それまで目が見えなかった人間が角膜移植のおかげで見えるようになっている。たいしたもんだよ。」
「ミロ、それは語弊がある。目の見えない原因のうち、眼の表面にある角膜という部分が機能しなくなった場合は、他者から角膜を移植することにより視力が回復するが、視神経その他の疾患の場合はどうしようもない。」
「あ、そうか、難しいもんだな。あと、ほかに腎臓や肝臓も移植できるし、皮膚も骨髄もあるし。血液は骨の中の骨髄ってとこで作られてて、それが出来なくなったときには適合するタイプの骨髄を他人からもらわなきゃいけないんだ。これはドナーが生きているうちに出来る移植だけど、何万人に一人くらいしか適合しないからドナーを探すのは大変だ。あと、生体肝移植や腎移植もあるな。」
「ミロ、それはまだ難しいと思うが。いずれまたゆっくり説明しよう。」
「うん、それもそうだな。ともかくいろいろな臓器を提供できるシステムがある。でも心臓がいちばん難しいんじゃないかな。なにしろ止まったら即刻死ぬのに、それを摘出して新しい心臓に置き換えるんだぜ。それを可能にする方法がちゃんとあるんだが、理屈ではわかっていても奇跡としか思えない。それに比べればほかの臓器のほうがずっと楽な気がする。」
「それも、臓器を提供してくれる善意のドナーがいてくれるからこそ可能なことだ。私たちは、その家族が乗り越えなければならない悲しみに思い至らねばならぬ。」
健康な人間が自分の意思で骨髄液を提供したり、提供者の死後に摘出される角膜移植とはわけが違う。いくら脳死判定を受けたといえども、生ある身体を切り開いて心臓を取り出すことは、残された家族に多くの痛みをもたらすのだ。
ミロとカミュの会話をカルディアとデジェルは真剣に聞いていた。この命は、アテナが蘇生させ、その手配により多額の費用をかけて病院で心臓移植を受けることにより永らえていることを許されたものだが、見も知らぬギリシャ人に心臓を提供してくれた、おそらく日本人の誰かに感謝することをけっして忘れてはならないのだった。

「よく動いてくれているか?」
離れの玄関前でミロが鍵を開けているとき、デジェルがカルディアの左胸に手を当てた。とくんとくん、と手のひらに規則正しい拍動が伝わってくる。
「ありがとう。感謝する。」
今はカルディアのものとなった心臓に、そしてそれを提供してくれた善意の人に、デジェルがそっとささやいた。


    ※ 心臓移植について (阪大医学部) ⇒ こちら
    ※ ギリシャの温泉 ⇒ こちら