◇その8◇

日本の宿に宿泊して最初の日のもっとも重要なイベントは温泉だ。これに異議を唱えるような読者がここにいる筈はない。露天風呂の画期的輝かしさの前には、粋をこらした会席料理もふっくらしたふとんも後塵を拝するしかあるまい。

離れの部屋の配置を説明したミロが次に取り掛かったのは浴衣の着方だ。
「なにも難しいことはない。こう、袖を通して前の打ち合わせを……こっちが先で、こっちをあとから重ねるようにして……要するに右手がすっと入るようになればいいんだよ。で、この帯で締める。締め方にとくに決まりはないから適当に……俺はこんなふうにするけど。」
さすが6年も暮らしているミロの着こなしは堂に入っていて、見よう見まねで浴衣を着込んだカルディアとデジェルとは一味も二味も違っている。
「こうかな?」
「右手は入るから、合格か?」
「う〜んと…少し直すか。」
ミロがカルディアの広がり気味の裾をくいっと引いて、デジェルの帯の結び目の位置を修正してやるとそれなりに形が決まる。
「どうだ?なかなかのものだろう?」
「うむ、立派なものだ。」
もともと背の高い二人なので、きりっとした立ち姿が決まると見栄えがする。聖闘士としての無駄のない身のこなしは、こんなときにも役に立つ。
「それじゃ、行くか。」
各々がタオルを持って離れを出ると、慣れない雪駄を履いた先代の二人は浴衣の袖を気にしたりミロにふところ手のやり方を教わったりして忙しい。
「では私はあちらに。」
「そっちが露天風呂か?」
本館に入ってちょっとミロに合図してから奥の廊下に行くカミュにカルディアがついていきかけた。
「いや、露天風呂はこっちではなくて、私は…」
「ええと、カミュはあまり露天風呂に入らないから。」
慌てたミロが補足する。しかし、先代の二人にはその意味するところがわからない。
「なぜ? ミロから、みんなで入るのが日本流だと聞いているが?」
「どうしてカミュは別?何かわけでも?」
「わけって…」
思わぬ質問に頬を赤くしたカミュも、女ではあるまいし、恥ずかしいからという理由など言えはしない。
一方、蘇生して以来、あまりにもたくさんの未知の物件に驚かされ続けてきた先代二人は、全てを受け入れてこの世界に馴染もうとする感覚に染まっていたため、人前で裸になって入浴するという、昔では考えられないことをミロから聞かされても、当初は驚いたがすぐにそれを受け入れた。それに比べれば、なんでも冷やす冷蔵庫のほうがよっぽど不自然というものだ。
「いっしょに入ろうぜ。そして裸の付き合いって奴をしなけりゃ、温泉に来た甲斐がない。」
「同じ水瓶座同士だ。私はカミュとも一緒に入りたい。日本の温泉の特徴について詳しい話を聞きたいが。」
カミュは窮地に立たされた。

羽田からの飛行機の中で、温泉の何たるかを知らぬ二人にミロはこう言ったのだ。
「日本人は他人とも平気で一緒に風呂に入る。むろん裸だが、恥ずかしいという者は誰一人おらず、一緒に湯に浸かって寛ぎながら初対面同士で楽しく話をするのが習慣だ。裸の付き合いといって、世界的には珍しいが日本ではごく普通の習慣で何百年も前から行なわれている。俺たちも最初は驚いたが、慣れればなんの問題もない。とくに露天風呂というのは室内でなくて野外にあるので最高の開放感を味わえる。俺たちも露天風呂が気に入ってる。さぞかし不思議だろうが、入ればきっとわかる。」
耳を疑うような話に唖然とするカルディアとデジェルを前に、隣に座っていたカミュもミロの言うことに間違いはないと頷いた経緯がある。こういうときのカミュは、自己の個人的都合は考慮せず、一般論で論旨に賛同するのが常だ。そのときの雰囲気では、カミュが他人とは湯に入らない主義だなどと、カルディアとデジェルが思うはずもない。
「俺たちから見ると実に優れた社会システムや高度な先端技術にあふれたこの時代にも変わらないものはある。日本人の入浴も今風に石鹸やシャワーを便利に使っているのだろうが、原始の中で皆で生まれたままの裸になって共同で風呂に入るという習慣が変わらずに残っているというのが実に面白い。まさに自然だ。人間の根源的感動を呼び起こす素晴らしい体験を四人でともに楽しむのが理想じゃないのか?」
カルディアの長台詞に続けてデジェルがたった一言。
「イデアだな。」
これが効いた。
イデアとはプラトン哲学の中心的概念で、理性によってのみ認識される実在であり価値判断の基準となるものである。えらく大袈裟なように聞こえるが、簡単に言えば、露天風呂の存在は大いに認めるべき価値があるということだ。
偉大な先人、古代ギリシャの哲学者プラトンを持ち出されたカミュが絶句した。見かけは同年齢だが実は大先輩であり、あの聖戦を闘ったという二人にここまで言われて別行動を取れる性格ではなく、かわいそうだとは思うものの、これではミロにも助けようがない。
イデアの前に羞恥はもろくも敗れ去る。

   えらいことになったな!
   これはとても断れる情況じゃないだろう?
   もう、諦めたほうがいいんじゃないのか?
   そもそも俺に見られるのはなんの問題もないし、カルディアとデジェルは
   初めての露天風呂に驚くのに忙しく、おまえの裸なんか気にしない
   自分と同じ男の身体なんか見慣れてるし、だいたいカミュの身体より、
   手術の痕がきれいになってるカルディアの胸の方に注目が集まるに決まってる
   たとえほかの泊り客がいたって、
   四人も外人がいてギリシャ語を喋っていたら、圧倒されるのは向こうのほうだ
   シャイな日本人は見て見ぬふりをするだろう
   アクエリアスのカミュも年貢を収めるときがきたってわけだ

「カミュももちろん一緒だ。蠍と水瓶の合コンといこう。」
「合コンとはなんだ?」
さっそく興味を持った先代たちにミロがこの現代語の説明を始めた。せっかくの新語登録だが、聖闘士にはこの言葉は無駄な知識ではなかろうか。
ちらりとミロを見たカミュがそっと溜め息をついた。