◇その9◇

九月末というのは初めて露天風呂を経験するにはいい季節だとミロは考える。
今朝の登別の気温は12度、日中も14度にしかならず、朝夕の風はとくに肌寒い。更衣室こそ室内だが、ガラスのドアから一歩外に出ると、そこは素裸には寒く感じられるのが当たり前で、その気温に震えたあとで熱い湯に浸かるというのはこたえられない快感であるのは言うまでもない。。
「うわっ!おい、デジェル!ほんとに外だぜっ!」
「……信じられない!」
「裸で外に出るなんて生まれて初めてだ!それにほら、湯気が上がってるぜ!」
「まるで池のように見えるが、これが温泉か!」
目の前の庭園の広い水面から白い湯煙が上がっているのを見れば、誰だってそれが池ではないことに気付くだろう。初体験の二人の純粋な驚きっぷりは、ミロに最初に露天風呂に来たときのことを思い起こさせた。たまたま他の客がいなかったので貸切状態なのも理想的だ。

   正直言って、この瞬間がいちばん面白いな
   サガもデスも心底驚いていたのが忘れられん
   シャカのやつは悟りを開きすぎていて、なんの感動もなかったが

さりげなさを装っていちばん後ろから外に出たカミュは、積極的な行動はミロに任せてその陰に立ち、なるべく目立たないようにしているのがミロにはありありとわかる。

   まったく問題ないな
   カルディアもデジェルも露天風呂に驚きまくってるし
   カミュに色目を使うはずもないから、そのうちに平気になるだろう

まったく見たことのない景色に立ちすくむ二人を促して、事前に説明したおいたとおりにざっと身体を洗ってからいよいよ湯に入る。
「石だぜ、本物の自然石だ!うわ……ほんとにお湯だ!なんて広さだ!」
「ほう! 腰掛けられるような手ごろの石がある!外気に触れているのに、どうやって適温を保つのだろう?」
「すごく気持ちがいいな!こんなのは初めてだ!」
今までに一度も浴槽に浸かったことがないというカルディアは足をつけただけでかなり興奮しているようだ。日本人から見ると不思議だが、入浴をシャワーだけで済ませているのはなにもカルディアばかりではない。ヨーロッパではそもそも浴槽を設置する習慣のない地域も多く、そうした土地の住人はシャワーだけで事足りるのである。
「いきなり肩まで浸からないほうがいい。最初は腰までだぜ。」
「ああ、そうだったな。」
カルディアが石に腰を下ろしたところでミロが注意した。身体を沈めると血管が水圧で圧迫されて血圧が上昇してしまうのだ。カルディアの退院にあたっては、身元引受人となったミロとカミュにも日常生活の諸注意が病院側から詳しく説明されている。
透き通った湯をすくい、肩にバシャバシャとかけ、足をひらひらと泳がせているカルディアとデジェルはこの環境をおおいに気に入ったようだ。
「なっ、いいだろう!」
「とてもいい!カルディアには毎日の入浴が欠かせないし、湯治というのは最高だな!」
デジェルが言うのは心臓移植の予後のことだ。免疫抑制剤を服用していていちばん恐ろしいのは感染症だ。健康な人間にはなんでもない菌やウィルスが原因となり重症になることもある。感染症を防ぐためにできるだけ毎日入浴するようにと言われているから、温泉で湯治というのはカルディアには実に適している。
身体の清潔保持のほか、ちょっとした微熱や怪我でも外来受診するようにと言われていて、毎日かかさず血圧、脈拍数、体重、体温を記録するのも肝要だ。
「犬や猫を飼ってはいけないし公園の鳩に近づくのもだめだ。いずれも感染症の危険がある。」
細菌やウィルスについても学習したデジェルが心配そうに隣のカルディアを見た。胸の傷はあとかたもなく消えているのに、これからの生活はかなり抑制が必要だろう。
「そんなに心配されなくても平気だよ。動物を飼おうと思ったことはないし鳩にも興味はない。自分の身体は自分で気をつけるし、万が一、俺が体温の記録を忘れても、デジェルがしっかりしてるから必ず注意してくれるに決まってるからな。」
「少しだけだからいいだろ。」 と言って十秒ほど肩まで湯に浸かっていたカルディアが湯の中の平たい石に身体を移して腰掛けた。きれいに盛り上がった筋肉には何の傷もなくて心臓移植をした人間だなどとは思えない。
「ほんとにきれいになったな。」
デジェルに感心されたカルディアが自分の胸に目をやった。
「ここからこの辺まで、」
人差し指が胸の真ん中に縦線を引く。30センチ近い長さにミロとカミュが息を呑んだ。
「すごい傷跡があったんだぜ。気が遠くなりそうだった。」
「胸骨正中切開だ。胸部の中央の骨を縦に切り開いて開胸器で左右に押し広げてオペをする。」
カミュの抑えた声が耳を打つ。
「俺も初めて見たときぞっとしたけど、デジェルのほうが真っ青になって、卒倒するんじゃないかと思ったよ。」
「だって、あの、あまりに凄くて…」
デジェルがカルディアの胸から目をそらした。きっと、あのときの手術創がまざまざと見える気がしたのだろう。
「たしかにきれいになってるが、俺がアリエスに治癒してもらったのは皮膚から骨に達するところまでだ。骨には手をつけてない。骨を元通りに結わえたワイヤーはずっとこのままにしておくそうだが、骨が完全にくっつくまで、三ヶ月くらいは重いものを持つとか運動するとかは禁止だって病院からもアリエスからも言われたよ。もう三ヶ月は過ぎたけど。」
「半年でも一年でも、いや、この先ずっと、重いものは持って欲しくない。カルディアはいつも無茶をする。」
いくら医師がそう言ってもデジェルは心配顔だ。頭では現代の医療技術が進んでいるのはわかっているが、胸の中の骨を切り開いて心臓を取り替えたあと、それをワイヤーで元通りに結びつけてあるという神をも恐れぬ荒業を大丈夫だと思うのは難しい。
「大丈夫だよ、医者がそう言った。 もちろん俺も気をつけるけど、お前もよろしく頼む。」
手を伸ばしてデジェルの手を捕まえたカルディアがその手をおのれの左胸に押し当てた。
「カルディア、なにを…」
「動いてるだろ?」
「は、離せっ…」

    ……え? これって……まさかな?
    先代の蠍と水瓶も……って話が出来すぎてるだろう

ミロの直感が何かを告げる。カミュが すっと横を向く。
真赤になってもがくデジェルがミロとカミュの目を気にしているのは明らかだ。 しかしカルディアはそんなことに頓着する気はなかった。
「俺が死なないように横で見張っていてくれ。もう聖闘士じゃないけど、俺は血の気が多いからなにを思いつくかわからない。俺の行動抑制剤になってくれ。」
ひたと見つめるカルディアから目をそらしたデジェルが
「わかったから!……わかったから手を離せ!」
と慌てたように言って手を振りほどく。
「ああ、わかったよ。で、俺の心臓、ちゃんと動いてたか?これからときどき確かめてくれていいからな。」
「そんな……わざわざ私が確かめなくても、こうして生きているのだから大丈夫だろうに。」
「でも俺はお前に確かめて欲しい。今までさんざん心配かけたから、お前も確かめて安心したいだろうと思って。違うか?なんなら、お返しにお前の心臓を確かめてやってもいいんだぜ。」
にやりと笑ったカルディアがデジェルにすっと手を伸ばしたので、急いでよけようとしたデジェルがバランスを崩して隣のカミュにぶつかった。
「あっ…」
あやうく頭から湯に浸かりそうになった二人がやっと体勢を立て直して詫びを言い合うのが面白いとカルディアは笑うのだ。
「うん、わかった!これが裸の付き合いだな。ほんとに愉快だ!」
笑いさざめいていると何人かの日本人が入ってきた。いずれも落ち着いた初老の男性で友達同士らしい。新来の日本人を珍しがっているカルディアと目が合うと、静かに黙礼してから空いている椅子に座って頭を洗い始めた。
「ふ〜ん、ほんとに裸の付き合いなんだな。日本て面白い国だな。」
感心したように言うカルディアのそばでデジェルが半分濡れた頭を気にしているのに気がついたミロが、すっと湯から出ると更衣室からフェイスタオルを持ってきた。日本人のすぐ後ろを裸で通っても双方ともなにも気にしていない様子に、先代の二人はいたく感心したらしい。
「日本人だな〜!」
「同化してる!」
湯に戻ってきたミロに感心したような目を向けて褒め称えるが、ミロにはなんのことやらわからない。
「え?なにが? ほら、そういう時はこれで頭を包むといいんだよ。俺たちみたいに髪が長いと、そうするほうがいい。女みたいだけど役に立つ。ほら、カミュも。カルディアもする?」
「それを言うならミロもだろ。」
結局四人でタオルを巻いた。やはりミロとカミュのほうが手際が良くて、巻いた形も決まっている。
「あれ?髪が横からこぼれてきたぜ?うわ、ほどけた!」
「髪が多すぎて一枚では包みきれないような気がするが。」
なんによらず、初めてのことは面白い。浴衣の着付けと同じように手を貸してやる。
「まるで修学旅行みたいだな。きっとこんなだよ。」
以前テレビで見たことのある修学旅行の密着取材レポートを思い出したミロがそう言うと、
「修学旅行とはなんだ?」
さっそくデジェルに質問された。
「修学旅行っていうのは…」
今夜は枕投げがあるかもしれない。