◇ 桜吹雪 ◇ その3

カルディアの心臓に異常な所見はなかったが、一晩入院することになったのはデジェルが不安を払拭しきれないためだった。
「今は大丈夫のようだが、もしもなにかあったら…」
と心配そうに言うのを制してまでそれを阻止する気は誰にもない。
「それなら一晩入院してよく調べてもらえばいいじゃないか。心臓移植した人間がテレポートした例は世界で初めてなんだから、影響を調べるのに慎重すぎるってことはあるまい 。」
「私もそう思う。」
この案には納谷医師も賛成したのでカルディアの検査入院がその場で決定した。 一緒に泊まり込みたいデジェルの気持ちを察して予備室のついた最上階の個室を取ると、看護師に案内されてゆく二人に明日の晩の夜桜見物を約束してからミロとカミュは病院 をあとにした。
さっきの事故の残骸はすでにあとかたもなく片付いていて車の通行もスムーズだ。外壁の崩れた建築中のビルにはブルーの覆いがかけられてまだ現場検証が続いているらしく、警 察と工事関係者の姿がちらちらと見える。 歩道には桜の花びらがきれいに散り敷いていて踏むのがためらわれるほどだ。
「俺達に連絡してきたときデジェルはかなり動揺してたな。テレパシーが震えるのを聞いたのは初めてだ。」
「無理もない。カルディアがとっさにテレポートしたから助かったが、それならそれで心臓にかかる負荷が心配になる。」
「もし並んで歩いてるときに建材が降ってきたらそれぞれがテレポートしたのか?それともテレポートできないはずのカルディアをデジェルがかかえてテレポートしたのかな?だ いたい自分がテレポートするときと、人にかかえられてテレポートするときと、負荷は違うんだろ?」
「え?」
「だって主体的にテレポートする側はかなり小宇宙を使うけど、かかえられてるほうは小宇宙を使わないぜ。それって消費エネルギーに差が出て当然だろう。」
「それは考えなかった。」
「俺も今の今まで考えたことがなかったよ。そのあたりの医学的検証ってされたことがないかもしれないな。」

   カミュと歩いていて上から建材が降ってきたら それぞれがテレポートするだろう
   間違ってもカミュを助けようなんて思わない
   俺はカミュを信頼してる
   十分な余裕をもって対処できるに決まっているからな
   でも、もしカミュがテレポートできない状態だったら?
   迷わず助ける!
   カミュは俺がそうするのを予見して身を任せるだろう
   でも間に合いそうにないタイミングだったら?
   う〜ん……間に合わせる! それしかない!

実際にそんな羽目になったら、カミュはミロがもろともに死ぬことなど望みもしないことはわかりきっているが、そのときはそのときだとミロは思っている。 千分の一秒にも満たない瞬間に生死を分ける判断を迫られるとき、役に立つのはそれまでに培われた豊富な経験と感情に流されない理性だ。

   俺ってカミュに関して感情に流されないで判断できるかな?
   う〜ん、俺の場合、感情を優先させることが理性だったりして?

ミロがあれこれと考えているとカミュも似たような思考経路を辿ったらしい。
「もしもお前が負傷して動けないときには私がテレポートして助けるから安心してよい。」
「それはありがたいけどさ、それで共倒れになったらまずいから、だめだと思ったらお前だけ逃げてくれ。」
「そんな事態は避けたい。」
「俺もだよ。そんなのはまっぴらごめんだね。でも世の中にはそうせざるを得ないときもあるからな。」
「うむ。」

   どうして桜って人に生と死を考えさせるんだ? こんなにきれいなのに……
   この世のものとも思えないほどきれいだからかな?
   そんなこと言ったらカミュだってこの世のものとは思えないほどきれいだからな
   まさか神に魅入られるなんてことは……
   もうよそう!   そんなことは考えないに限る!

桜の下にはなにが埋まっているかをあやうく連想しそうになったミロは考えを切り替えることにした。
「千鳥ケ淵って昔は江戸城の堀だったんだろ。なぜ千鳥?」
「一説によると 堀の形が千鳥と似ているからだというが真偽のほどはわからない。江戸城を囲むのが内堀で、その外側にある城下町を囲むのが外堀だ。千代田区と周囲の区の境界は、神田付近をのぞいてほぼ外堀と一致する。」
「そうすると江戸時代の城下町は今の千代田区くらいしかなかったのか?意外と小さいんだな。」
「城の周囲は武家屋敷で囲まれる。その外側が町人の区画なのだろう。渋谷、新宿に至っては当時は藁葺き屋根の農家が点在するのどかな農村だったはずだし、品川は潮の匂いのする漁村で町人たちが遊びがてら新鮮な魚を食べにくる場所だったという。」
「ふ〜ん、そうなのか。たかだか百年ちょっとでずいぶん変わったんだな。」
今の賑わいからはとても想像できない昔の話だ。

桜の名所は多々あるが千鳥ヶ淵の桜を見に行くことを思い付いたのはカルディアだ。
「これってなんだ?」
四月になったある日の夕食の茶わん蒸しの蓋を開けたカルディアが指差したのは縁がほんのりとピンクに染まった百合根のひとひらだった。片方の端に小さく切れ目が入れてあっ て、日本人なら誰でも桜の花びらを模したものだとわかる。
「それは百合の球根の一片を桜の花びらの形にしたもので、ふちを食用の色素で染めてある。カーブした形を生かしてうまく成形してあり、季節感のある食材だ。」
「百合の球根って?」
あいにく聖域に暮らしていたカルディアは植物に詳しくない。百合の花は知っていても地面の下になにがあるか考えたことはなかったのだという。 そこでカミュが球根植物についてざっと説明し、おおよそは知っていたデジェルが自分の知識の補充をしていると今度は桜が話題になった。
「ここ北海道にも桜はあるけど、日本でもいちばん北にあってまだ寒いので花が咲くのはもっとあとになる。桜の名所っていえばまず京都、ここは名所だらけだ。なにしろ歴史が 違うからな。それから奈良の吉野山。あとは高遠とか弘前城も有名だ。」
「ミロ、そう地名ばかり並べても。」
「うん、わかってる。でもこのあとが本命だ。桜は千鳥ケ淵がいい。」
「たしかに!」
桜の美しさについてはカルディアもデジェルもよく知っている。日本列島の南で桜が咲き始めてからは毎日のようにテレビで紹介され、日本人の桜好きは遠来の二人にもすぐにのみ込めた。やがて花便りは関東に移り、何かというと千鳥ヶ淵の桜の咲き具合が報道されるようになってきた。 そのたびにミロが、
「東京の真ん中にあってひときわきれいなところだよ。ボートも漕げてシチュエーションは最高だと思う。」
「あの水は皇居の堀だ。皇居というのは聖域で言えば教皇の間とかアテナ神殿に当たるかな。その周囲に堀があって、そこまでは誰でも行ける。」
「最近では健康のために皇居の周囲を走るのが流行ってるそうだ。桜の時期は花見客が多いから走るのは無理かもな。」
と様々な解説を加えていたのである。ジョギングはともかく、水辺でボートを漕ぐという発想は先代の二人にはなかったので、 その場はボートの漕ぎ方や目的についておおいに盛り上がった。
「そうだ!俺の検診は明後日だろ。その時にみんなで千鳥ヶ淵の桜を見に行こう。そろそろ満開だっていうじゃないか。あそこは病院から遠いのか?」
「それはいい考えだ。病院からは車で30分くらいじゃないかな。この機会を逃す手はない。」
そこで今回の夜桜見物が計画されたのだった。