「 手 」
獅藝舎 ( しげいしゃ ) の奥まった一室から出てきたのはアイオリアとムウである。
「助かるだろうか?」
「侍医は首を振りましたが私の見るところ五分五分でしょう。 出血はひどいものの、シュラの若さと体力がそれを補えるかもしれません。」
片腕を失ったシュラを運び込んだときに床にこぼれた血はすでにきれいに拭き取られ、臭い消しの香が焚かれている室内には灯りが一つともされている。
「昭王がいかにお嘆きになることか……」
「たしかに狷介なデスマスクでしたが、数少ない御連枝のお一人として篤く遇されておられたのです。
シュラが目覚めれば事の次第がはっきりとするのですが、あの様子を見るとおそらく……」
ムウは口を閉ざした。 日頃のデスマスクの不穏な言動を見聞きするにつけても、もしや…、の思いをいだかざるを得なかったのだが、確証もないのにどうして王位簒奪の疑いなど口にできようか。
しかし、今宵の凄惨な有様はなにを意味しているのか。
デスマスクの乳兄弟であるシュラが忠心から仕え、身を挺して主を守ってきたことは誰しも知っている。
日の当たらない地位にありながら天勝宮一とささやかれる剣の腕を持ち、当人はその賛辞を聞くたびに
「 昭王様を凌ぐことなど誰にもできることではありませぬ。」 と持って生まれた謙虚な態度を崩さなかったものだ。
忠誠心篤く、私心なく主に仕えてきたそのシュラが、深夜、人気のない武徳殿で朋輩と主を誅殺し、自らも片腕を失って倒れていたことをなんと解するべきだろう。
「デスマスクの首を切り払ったのは明らかにシュラでしょう。 恐ろしいほどの鮮やかな切り口で、とても余人に真似のできるものではありません。
もう一人の男もおそらくシュラが…」
ムウの言葉にあまりにも凄惨な様子を思い出したアイオリアは重い溜め息をついた。
恐怖に足がすくんで動けない侍僕に業を煮やして自分でデスマスクの動かぬ身体を戸板に乗せたときに、わずかに皮一枚でつながっていた首がゴロリと転がり落ちたのである。侍僕が押し殺した悲鳴を上げ、さしものアイオリアもギョッとして身をすくめたときに、すっと寄ってきたムウがこともなげにその首の髻をつかんで戸板に乗せたのには驚いた。
「 時間がありません。 早く片付けぬと夜が明けてしまいます。 私はシュラを獅藝舎に運びますから、ここはお任せしますよ。」
そう云うと、ムウは侍僕を急きたてて足早に行ってしまう。 気を取り直したアイオリアはその場にシュラの右腕が残されているのに気付き、まだ温かいそれをそっと拾い上げて主のデスマスクの躯に添わせると、遺骸を片付けるためにその場をあとにしたのであった。
「憶測はいくらでもできるが、シュラが目覚めぬことには何も云えぬ。 昭王にはデスマスクの所在不明をお話しせぬわけにはいかないが、なんと申し上げたものだろう?」
「有りのままに。」
「…え? それでよいのだろうか。」
「王に隠し事はできませぬ。 まだお若いとはいえ、すでに燕を背負っておられる御身がこれしきのことで動揺なさる筈はないでしょう。
お心うちにお思いになることはおありでしょうが、臣下の我々には忖度 ( そんたく=推測
) できぬことです。」
「わかった。 では、明朝、私から申し上げよう。」
額の汗をぬぐったアイオリアはぬるくなった茶を飲んだ。 まだ身体中に血の臭いがまとわりついているようだった。
翌日、朝餐後に人払いをしてもらい、百華園を散策しながら言葉を選んで昨夜の件を奏すると、昭王は瞠目しなにも云わずに話を聞いた。
「して、シュラは?」
「まだ意識が戻りません。 一両日中が山とのことです。」
頷いた昭王がわずかに手を挙げた。 遠く離れてついてきていた侍僕達が寄って来る。
そのまま百華園の奥の華清亭に足を向けた昭王はいつものようにそこで茶を喫する。
「ときにアイオリア。」
「は。」
「昨日の梅の賀宴もよかったが、今日あたりはそちの獅藝舎の梅も見ごろであろう。 午後の野駆けのあとで色鮮やかな紅梅を見せてもらおうか。」
「紅梅を……では、お待ち申し上げております。」
それからなんということもなく花を愛で機嫌よく冗談など言い掛けながら、昭王は朝議の場へと移っていった。
一時間ほどで朝議が終わり、出てきたムウをアイオリアがつかまえた。
「ムウ殿、野駆けのあとで昭王が獅藝舎に紅梅を見に来られます。」
「……ほぅ、紅梅を! では、私も御陪席してもかまいませんか?」
「ぜひ、どうぞ。 お待ちしています。」
二人の間に緊張した視線が交わされた。 紅梅がなにを意味するのか、もとよりわからぬムウではないのである。
「で、今朝の花の咲き具合はいかがです?」
「昨夜の雷にだいぶ驚いたようですが、いまは落ち着きを取り戻してきれいに咲いてくれています。」
「それは重畳。」
わずかのことでいちいち侍僕を遠ざけるのも煩雑なことである。 こうした符牒で話をすることは多いのだった。
野駆けの汗をぬぐい、更衣を終えた昭王が大勢の侍僕を引き連れて獅藝舎にやってきたのはその日も遅くなってからのことだ。
さっそく庭の紅梅を愛でて詩を朗じた昭王は侍僕たちに笑いかけながら、こう言ったものだ。
「おのおの余にならって詩を一編作るがよい。 良い詩を詠んだものには褒美を取らせるゆえ、呼ぶまではここで詩作に励むようにせよ。」
おおいに慌てる侍僕たちを残してアイオリアとムウを従えた昭王が室内に入っていった。
庭では突然の下命に腕組みをして想を練るもの、古来有名な詩を朗誦し始めて周りにうるさがられるもの、様々に工夫を凝らし始めている。
「こちらに。」
アイオリアが昭王を奥の部屋に導くと、そこにシュラが傷ついた身を横たえていた。
「意識は戻らぬのか?」
「はい、しかし、うわ言を言うときがありますので、いずれは目を開けるだろうと思われます。」
頷いた昭王がシュラに近付き、すっと額に手を差し延べた。
「あ…それは!」
「王たる御身が穢れにお触れになっては…!」
ムウとアイオリアが驚きの声を上げる。
「穢れではない。 身命を賭して余を守ろうとした忠義の士ぞ。 なんの穢れであるものか!」
はっと畏まる二人の前で昭王は袖先を伸ばし、絹越しにシュラの額に触れた。
「そちの目覚めを待っている。 決して死んではならぬ。」
見守るアイオリアの目にシュラの頬が赤らむのが見えるような気がした。
三日後シュラがうっすらと目を開けた。 その報に花見にこと寄せたムウがやってきてアイオリアと奥の間に入った。
しかし、ムウがどんなにことをわけて説得しても、シュラは首を振るばかりで何も話さないのだ。
「主のデスマスクの汚名を抱いたままで死にたいようにも見受けられますね。」
「その気持ちもわからぬではないが、真相を知らねば不安が募る。 もし、デスマスクが本当によからぬことを企んでいて賛同する者が残っていたら、いくら当の本人が死んでいてもそのままにしてはおけぬ。」
「ともかくシュラが目覚めたことを昭王にお伝えしましょう。」
こうしてその夕方に再び昭王がやってきた。
「あ…」
さすがにシュラが顔色を変えた。 剣の腕を買われて幾たびか手合わせをしたことはあるものの、こんな状況下で会おうなどとは思いもよらないことであった。
迷わずに近寄った昭王が前と同じく絹越しに額に手を当てる。 あまりのことにシュラは気が遠くなりそうだった。薄い絹を通して昭王の手から温かさが伝わってきて、シュラの五体を震わせる。
少ない血が一気に沸き立って傷口の痛みが肩まで這い登ってくるようだった。
「気がついてよかった。 なにも気に病むことはない。 早く直って親に顔を見せてやるがよい。」
少し身をかがめた昭王がそれだけを言った。
責めることも詰問することもせず、ただそれだけを語った昭王が部屋を出ようとしたときだ。
「昭王様…」
シュラのかすれた声が聞こえ、昭王が足を止める。 アイオリアとムウが ほっと顔を見合わせた。
シュラは全てを話し、それで心が軽くなったものか、その後はゆっくりと快方に向っていった。
あの件についてはなにも言わないものの、アイオリアと剣のことを話したり、ようやく馴染んだ魔鈴の頭を撫でることも平気になった。
デスマスクの病死が昭王の名で公表されると、あまりに急なことに首を傾げる向きもあったようだが、同時にささやかれ始めた秦との縁組の噂が天勝宮を席捲し、デスマスクの死はすぐに忘れ去られたようである。
やがて不慮の事故で右腕を失ったシュラがアイオリアに付き添われながら庭をゆっくりと歩く姿が見かけられるようになり、左手で剣を持つ日がいつになるかの賭けが半ば公然と行なわれるようになったが、それを聞いたシュラが笑っていたところを見ると、回復も相当に早いと思われるのだ。
「だから言ったでしょう、シュラは若いし、立ち直れますよ。 今度は文字通り、昭王の片腕となることでしょう」
「昨日などは、部屋のなかで魔鈴にのしかかられても平気で遊んでやっていた。 あれほど胆力のある男は初めてだ!」
「ほぅ、それはそれは! アルデバランでもちょっと身を引くのではありませんか?」
「おそらく昭王はおできになるだろうが、そんな畏れ多いことはこちおらから願い下げさせていただこう。
魔鈴が興奮してちょっとでも爪を立てたら、とんでもないことになる!」
「もっともです。」
「あ! カミュ様、あの方がシュラ様です。 、アイオリア様と一緒に向こうに行くあの人!天勝宮で一番の剣の使い手の!」
「ほぅ! …手に……怪我をしておいでなのか?」
「ええ春頃に。 ここから先が…」
そう言って貴鬼が自分の右手の肘のあたりにさわった。
「ないのだそうです、なにかの間違いで切れてしまったのだとか。」
間違いで切れるものではないのだが、貴鬼にはなんの噂も伝わってこなかったし、もとより叔父のムウも仲の良いアイオリアも、貴鬼がいくら訊いても首を傾げるばかりなのだった。
「でも、きっといつか左手で剣をお持ちになって、また天勝宮一の評判をお取りになります、みんなそう言ってますから!」
「一流の剣士ならきっとできよう。 すると、それまでは昭王様が一番の使い手かな?」
「え〜っと、カミュ様がおいでになりますし、昭王様もお強いし。 あれっ、どうしよう?」
困っている貴鬼を従えながらカミュは厩舎に向かっていく。 このあとアイオリアと合流して昭王の野駆けに同行する楽しさがカミュの胸を躍らせる。
「カミュ様、今日は雉をつかまえられるといいですね、この間みたいに大きくて立派な雉!」
「さあ、どうであろう? 勝負は時の運、貴鬼が喜ぶような獲物があると良いのだが。」
「運も実力のうち、とアイオリア様がおっしゃいました、大丈夫です、きっとつかまえられます!」
「では期待して待っていてもらおうか。」
すれ違う宮女が頬を染めて礼をする。 楽しげな二人の姿が回廊の向こうに消えていった。
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