その10   ライオン

明け方の光がぼんやりと窓から差し込み始めたころ、小屋の外で低く唸る声がしてカミュははっと目が覚めた。 ドキッとしてミロを見ると、すでに眼を覚ましていて、
「ライオンだ。 二頭いる。」
そう言ったとたん凄まじい咆哮とともに二頭が争う気配がして、吼え立てる声が空気を揺るがすようだ。 まるで頭のすぐそばにいるような気がしてカミュが身をすくめたとき、すぐそばの壁に激しくぶつかってきたらしく小屋が揺れた。 怒り狂った野獣の怒号がしばらく続き、恐怖のあまりミロにしがみついたカミュが息を止めているとやがて唸り声が遠ざかって行った。
「なるほど、家の中というのは便利だな。 ライオンが来ても平気で寝ていられる。 人間が家の中で寝る理由がわかった。」
「あ……ああ、そうだな。」
カミュの方はまだ動悸が収まらない。 耳元で聞くとライオンの咆哮というのは想像を絶する物凄さなのだ。気の弱い者なら気絶するだろう。
「ライオンは最初の一声で獲物を恐怖で動かなくさせておいてから、強靭な前足の一撃で首の骨を折る。 それで決まりだ。」
そのライオンと闘って勝つというミロにカミュは感心するほかはない。


翌朝から北へ向けての旅が始まった。
どちらの方角の白人居留地が近いのかまったくわからないので、どうせ進むなら少しでもフランスに近い方に進むことにしたのだ。何日かかるかわからないが、いずれ港にぶつかることは確実だ。
出発にあたって小屋の中をきちんと整理して、必要な物を持つことにした。
「君の宝物を持っていこう、きっと役に立つ。」
金貨や装身具、それから写真と日記を一まとめにして小屋の中で見つけた袋に入れてミロに見せた。 自分の家だと考えているミロに黙って持ち出すのは嫌だったし、これらの品物は実際にミロのものかもしれないのだ。 金貨をミロのために使うことは、息子の行く末を案じながら亡くなった二人の気持ちにかなうことだとカミュは考えた。
ドアにかんぬきをかけ、咲いたばかりの新しい花を墓に供えてから小屋をあとにした。 ミロと一緒なので食料も心配なければ猛獣に襲われる危険もない。 森の神の如きミロの存在がカミュを安心させる。

そうやって旅を続けて一週間が経ったときのことだ 、安心しきっていたカミュを恐怖が襲った。
ミロが少し先を歩き、ちょっと遅れたカミュが屈んで靴の紐を結びなおしていたときだ。 なにかの気配にふと顔を上げるとすぐそばの茂みから立派なたてがみのライオンがぬっと顔を出したのだ。 その距離およそ5メートルで、これはライオンにすればほんの一跳びの近さである。 思わず息を呑みミロを呼ぼうとしたとたん凄まじい咆哮があがり戦慄が走る。 獲物が動けなくなったところをたったの一撃で首の骨を折るという話を思い出したときライオンが頭を低くして跳躍の体勢に入った。
しかし、身動きできなくなったカミュを絶好の獲物と見て鼻筋にしわを寄せてもう一度激しく吼えてから襲い掛かろうとしたのはライオンの誤算だった。 後ろから走り寄ってきたミロがなんとライオンの尾を掴んでぐいっと引っ張ったのだ。 死を覚悟したカミュはライオンの向こうにいるミロの肩や腕の筋肉が小山のように膨れ上がって血管が浮き出る有様を信じられない思いで見た。 いったいどこの誰が血に飢えたライオンの尾を掴んで引き止めようとするだろうか。
あと少しのところで邪魔をされたライオンは怒り狂って吠え立てながら暴れたが、ミロは力を抜かずにじりじりとライオンを引き寄せる。 ついに振り向いたライオンがミロを憎い敵と認めて耳を聾するばかりに吼えた瞬間、手を離したミロが素早く右へ回り込みライオンのたてがみを掴んで背に飛び乗った。 恐ろしいほどの早業で、見ているしかできないカミュは茫然とするばかりなのだ。 左手を暴れるライオンの首にまわして締め上げたミロが腰のナイフを抜いて何度も胸を突き刺した。 狂ったように唸り声を上げたライオンが地面を転げまわるがミロは手を緩めることをせず、やがてナイフが深々と心臓を突き刺した。 カミュがほっとしていると、びくびくと痙攣している身体から柄まで刺さったナイフを抜いたミロが倒れているライオンに片足をかけ、空を仰いで喉も裂けそうな叫び声をあげたではないか。 野生の血が沸き立っているようで、今までに見たことのない別人のようなミロにカミュがドキッとしているとジャングルのはるか奥からそれに答えるように同じような叫び声がいくつも響いてきた。
勝利の雄叫びをあげて満足げにナイフを腰に収めたミロが振り向いたときにはもういつもの様子に戻っている。 といってもかなり返り血を浴びて凄惨な格好だ。
「ありがとう。 おかげで助かった!」
カミュが震える声で礼を言うと、
「怪我はないか? まったく油断も隙もないな。 よっぽど君がうまそうに見えるんだろう。」
「そうなのか?」
「ライオンから見れば白くて柔らかそうだからな。」
本気なのか冗談なのかわからない。
「これで三度も命を救ってもらったわけだ。 本当にありがとう。」
「友達だから当たり前だ。 でも俺から離れない方がいいな。」
もっともな忠告である。 今後はミロに影のごとく従うことを心に誓いながらカミュは靴紐をもう一度きつく結びなおした。


                                  



             どうしようかなと思いましたが、やはり勝利の雄叫びは欠かせません。
             ミロ様、野生の魅力全開です。