その11   居留地

小屋を出発してから二十日余りたったころ、ようやく白人の居留地が見えてきた。 港には大小さまざまの船が何艘も停泊し、やっと文明の光の届く地域にたどり着いたことがカミュをほっとさせる。
足を速めていくと向こうから頭に荷物を載せた黒人の男がやってきた。 のんびりと歩いていたのだが、ふっと顔をあげてミロとカミュを見たとたん慌てふためいてもと来たほうに逃げていってしまった。
「なぜ逃げる?」
「たぶん、君のことをどう考えていいかわからなくて混乱したのだろう。 金髪の白人がそんな格好をしていたら誰だって驚くよ。」
「そういうものか?」
いざ居留地に入ったら気をつけなければいけないことをもう一度話しながら街に入っていくと早速何人もの白人や黒人がミロのたくましい体躯やおよそ白人とは思えない格好に驚いているのがありありとわかる。 もっともカミュの方も一ヶ月以上も着替えていないのでそうとうにひどい格好ではあるのだが。
通り合わせた白人にホテルの場所を聞き当面の部屋を確保すると、カミュはすぐさまミロを洋服の仕立て屋に連れて行った。 ここはアフリカ東部海岸でもそうとう規模の大きい居留地で当座必要なものはなんでも揃うのがありがたい。
「お急ぎでしたら古着もございますが。」
「いや、誂えてもらう。 明日の夕方までに頼みたい。」
そんな無茶な、と店主が言いかけたところでカミュが金貨を見せるとにこにこ顔で請け負ってくれた。 カミュのほうはごく普通のサイズなので、店にあった既製の服でぴったりしたのを見つけることができたのは幸いだった。
「あんな服を着なくてはいけないのか?」
「ここはもうジャングルじゃないからな。 はじめは窮屈だろうが我慢してほしい。 君は類人猿じゃなくて人間なのだから。」
服の利点を説明しながらホテルに戻りフランスに行く船の寄航を尋ねると、あいにく昨日出航したばかりで次は一ヵ月後になるという。 がっかりしたが、フランスとジャングルの中間の性質を持つこの場所でミロにいろいろなことを教えるのもかえっていいような気もする。 いきなり船に乗せてマルセイユで降りるのではミロも適応するのに苦労するだろう。
「ここに30日ほどいることになったから、その間にもっとたくさんのことを学べる。」
「ただ待っているより先に歩いていった方がいいんじゃないのか?」
素直な疑問を呈するミロのために、フロントから地図を借りたカミュがアフリカとヨーロッパの位置関係を正確に説明し、地図上に今まで歩いてきた距離を指し示すとミロが唸った。 広いアフリカ大陸の東の海岸のほんの小さな砂粒くらいの距離を歩いたに過ぎず、フランスがはるか彼方にあることがわかったのだ。
「世界はこんなに広いのか! 俺は今まで何も知らなかったのだな。」
「君の前に世界は広がっている。 私と一緒にたくさんのものを見に行こう。」
その日はホテルの役割やベッドの使い方、入浴の仕方、食事のマナーなどを教えることにした。 なにしろ服がないのでホテルのレストランには行けず、ルームサービスを利用する。 初めて見る料理や飲み物にミロは首をかしげ、それでも本で知っていたフォークやスプーンなどの品物が出てくるたびに眼を輝かせて喜んだ。
「本の絵は小さかったが、そうか、本当はこんなに大きいのか。」
「なぜ、肉を焼いて食べる? 生のほうが断然おいしいが。」
数々の疑問に一つ一つ丁寧に答えながらカミュが教えるテーブルマナーをミロはかなり器用に自分のものにしていった。 翌日の夕方に仕立て屋に行き、注文しておいた服を着せて鏡の前に連れて行くと、
「服を着ている自分も不思議だが、それよりもっと不思議なのは鏡だな。 俺が二人いるようだ。」
自分の姿に感心をしているのは大きな子どものようだ。 それから床屋に行って最新流行の髪にしてもらうと、これがつい昨日まではジャングルでライオンと闘っていた原始の男だとはとても思えない紳士ぶりだ。
「ミロ、たいしたものだ。 立派な紳士だよ!」
「外側だけはね。 中身はちっとも変わっていないさ。」
ミロの言うとおりで、ミロのかぶっている文明の皮はごく薄くてまだまだ付け焼刃なのだ。

船を待っている間には、ホテルに出入りする白人たちとも知り合いになってくる。
ある日、夕食後のコーヒーを飲みながらジャングルを見渡せるベランダでくつろいでいると、話が狩りのことに移ってきた。
「狩りもいいが、なんと言っても警戒しなくてはいけないのはライオンだな。 あれほど恐ろしい猛獣はいない。」
「まったくだ! 銃があるからいいようなものの、人間にはとても勝てるはずがない。」
カミュが、ここに勝てる人間がいるんだが、と面白く思いながら聞いていると、そのうちの一人がミロに聞いてきた。
「ときに、あなたはアフリカに長くお住まいだと聞いていますが、狩りはどうですか?」
「あいにく、いまは空腹ではないので。」
いい冗談だと笑いが起こったが、カミュはミロの言ったのが冗談ではないとわかるのだ。 さっきたっぷりと食べたばかりのミロは狩りをする必要がない。
「なるほど! いかにもこの土地に慣れておいでのようですな。 しかし、いかにあなたでも銃を持たずにライオンの横行する夜のジャングルに入ってゆく勇気はないでしょう?」
「勇気?」
ミロが眉を上げた。 見当はずれなことを言うものだとカミュが笑っていると、一人の男が途方もないことを言い出した。
「もし何も持たずにあなたがジャングルに行って狩りの獲物を持って無事にもどってこられたなら5000フラン差し上げましょう。」
ミロがカミュをちらっと見た。
「君に任せるよ。」
ミロの実力に万全の信頼を置くカミュが言うと、
「ではさっそく。 ナイフを持っていってもいいでしょうね。 これがないと手間なので。」
ミロが立ち上がり、その場にいた全員が真っ青になった。 いちばん慌ててミロを止めたのは5000フランの提供を申し出た男だ。
「おやめなさい! あなたが死んだら私の責任だ! やめてくれるのなら今すぐ5000フラン差し上げましょう!」
「いいえ、少し時間がかかるかもしれませんが、ここで待っていていただけますか。」
そう言ったミロは部屋に戻って革の腰布一つにナイフを差した格好になると、驚いている一同の横を通って夜の森に消えていった。  カミュ以外のものがじりじりしながら待つこと一時間。
「もう待てない! 我々の有志で銃を持ってあの男を救い出しに行こう! まだ間に合うかもしれん!」
とうとう我慢できなくなったみんなが立ち上がったとき、夜の森の奥から凄まじい雄叫びが響いてきた。 ミロが勝利を収めたときの叫びだとカミュだけにはわかるのだ。
ぎょっとした一同がざわめいていると、ミロが巨大なライオンを肩に担いで現われたではないか。
「お待たせした。 なかなか見つからなくて時間がかかった。」
驚愕した人々から一斉に歓声が起こり、口々に賞賛の言葉が浴びせられる。 真っ赤になって興奮した男からさっそく5000フランが差し出され、
「君が正当に得たものだ。 受け取ればいいんだよ。」
とカミュが口添えし、初めてミロは自分の力で金というものを手に入れたのだった。


                                  



             夜のライオン狩り、これも原作通りのエピソード。
             ミロ様、文明への順応度は高いです。