その15   パリ 2  〜指紋〜

カミュが次にミロを連れて行ったのは警察署だった。
かねてから顔見知りの警視を呼び出したカミュが机の上に広げたのはあの小屋から持ってきた古い日記である。
「え? どうしてそんなものを持ってきたんだ?」
「これが君の身元を証明する鍵になるんだよ。」
カミュがミロの生い立ちについて説明し、警視は唖然としながら聞いていた。 目の前にいる背の高い青年はとてもそんな経歴の持ち主には見えないのだ。 宝石店で肖像画の人物がどうやら判明したらしい話もすると、ますます身を乗り出してロケットの肖像とミロを見比べている。
「確かに類似点はありますが、似ているというだけではどうも…」
「いえ、それがここに日記があります。 ご一読ください。」
古い日記が手渡され、最初は怪訝そうな顔をしてページをめくっていた警視は先に進むにつれ真剣に読み始めた。 途中で部下が書類を持ってきたのだが、
「あとにしてくれ。」
と手を振って追い払ってしまった。 30分が過ぎた頃、日記を閉じた警視にカミュが尋ねた。
「終わりの方のページに子どもの指の痕がついていますが、指紋というものは大きくなっても変わらないものでしょうか?」
「指紋って?」
ミロの知識に指紋という言葉はない。 いや、それはこのころの世間一般も同じなのだが、指紋というものに対する認識はまだ広まっておらず、犯罪捜査への応用もまだごく一部で実験的に行なわれている時代なのだ。
「指先の細い線の模様だ。 誰の指にもある。 ほら、このページに小さい指のあとがついているだろう。 」
ミロが覗き込んでみると確かに指のあとが幾つも見える。
「こんなふうに書いてありますな。」
警視が読み上げた。

   息子を抱いてあやしていると、こぼれたインクに手を浸して小さい指のあとをぺたぺたとつけてしまった。

   
この子が私のあとを継ぐと思うと誇らしい。 この土地にいてこんなことを思うのはおかしなことだが、
   私はこの子が立派に育って先祖からの名を継いでくれるような気がしてならないのだ。 

生まれて一年も経たない赤ん坊の指先の指紋はとても小さくて、ミロは自分の指と比べてみた。 考えたこともなかったが、生まれてこのかたジャングルで過ごしてきたので指先は固く指紋も擦り減っているように見える。
「指紋というものは大人になると変わってしまうということはないのですか?それに、」
ミロが隣りのカミュの手を取った。
「彼の手はこんなに柔らかいから指紋がはっきり見えていますが、私の手は先ほどの話でおわかりでしょうが、ジャングルでの暮らしが長かったので指紋が消えかかっています。 これではわからないのではないですか?」
ミロの言う通りで、手先を使う仕事をしたことのないカミュの指は白くて女のように柔らかい。 ミロの指と比べてみるとその差は歴然だ。
「赤ん坊のときよりも指の面積が大きくなるので若干の変化はありますが、成長しても指紋は変わりません。 我々としても犯罪捜査に指紋を応用すべく研究しているところですが、それは確かです。 それから指先に過度の摩擦や刺激が加わって指紋が見えにくくなることがあっても本来の指紋が消えることはない筈です。 まだ研究段階ですが、個人の指紋は一生変わらないものです。」
そういうと警視は机の上にあったスタンプ台の蓋を開けた。
「ここに指をつけて、この紙の上に押し当てて。」
ミロが言われたとおりにすると、 メモ用紙の上にいささか不鮮明だが、渦を巻くミロの指紋が現われた。
「指紋は一人ひとり別々です。 これを鑑識に回して日記の指紋と比べてみましょう。 お断わりしておきますが、はっきりした結果が得られるとは限りません、あまり期待なさらないように。 専門家の意見はまた別ですから。 よろしいですかな?」
「ミロ、君もはっきりしたことが知りたいだろう?」
「ああ、俺も知りたい。」
ミロが指紋の照合に同意したので、警視が鑑識の係員を呼びミロの両手の指紋を正確に紙に写し取った。
「結果が出るまでにはしばらくかかります。 そのときにはこちらからご連絡します。」
そうとう興味を持ったらしい警視に礼を言って警察署を出るともう夕方近くになっている。 馬車をつかまえて屋敷に帰り、ミロのために用意された客用寝室に入る。 ずっと黙っていたミロが口をひらいた。
「君は俺があの肖像画の男の子どもだと思っているのか?」
「私は間違いないと思う。 そうでなければ、アフリカのあの奥地に君のような白人の子どもがいた説明がつかない。」
「でも俺の母親はカラだ。 俺はカラに育てられた。 君はそのことを忘れている。」
「育てられただけだよ。 君は確かに純粋な白人だ、そうでなくてはならない! カラは君の父親が白い類人猿だと言ったのだろう? 類人猿の言葉に人間をあらわす言葉がなかったとすれば、白人のことをそう言ったとしてもなんの不思議もない。 そしてカラがそう考えていたからには根拠があるはずだ。 おそらくカラはあの二人が相次いで亡くなったあと、たぶん赤ん坊の泣き声に惹かれてあの小屋に入り、泣き叫んでいる君を見つけて母性本能を刺激されて抱き上げたのだろう。 君は乳を求めてすがりつき、カラはそれに応えた。 哺乳類の乳は出産により分泌される。 だからそのときのカラには子どもがいたはずだ。 君は覚えていないか? 覚えていないのなら小さい頃に死んだとも考えられる。 ともかく私は君に本来あるべき場所に戻って欲しい。 あの海岸の小屋で子どものことを思いながら国に帰ることなく亡くなってしまった人たちの思いを継いでやりたいんだ! 君が立派に成長しているだけではまだ足りない。 あのトゥールーズの家系を正当に継ぐべき存在であると世間に認めさせてこそ、亡くなった二人の思いに応えることになる。」
「カミュ……」
カミュがこれほど感情的になるのは珍しい。 じっと見つめるミロの視線に気付いたカミュが少し頬を染めた。
「君がいなかったら私はここにはいない。 君のためにできるだけのことをさせてくれ。」
「気持ちはとてもありがたい。 正直なところ、俺も自分があの人たちの息子かもしれないとも思う。 だが、」
ミロが窓辺に寄った。 沈んでゆく夕陽は同じはずなのに、アフリカの夕陽の方がはるかに大きく色鮮やかなのはなぜだろう。 はるか遠くに来てしまった自分は、いったいここで何をしようというのか。住み慣れたジャングルを離れたのは間違いだったのではないだろうか。
「俺の理解するところによると、あのトゥールーズという家は裕福で社会的地位も高いようだ。 あの日記を書いた当人は、つまり俺の父親かも知れない人だが、息子が跡継ぎになることを望んでいた。 しかし俺は二十年もジャングルにいたのだ。 とすれば他の誰かがとっくにトゥールーズの名前を継いでいるんじゃないのか? 俺が跡継ぎだとわかれば、その誰かはどうなる?」
「それは……」
カミュは唇を噛んだ。 

   わかっている………そのことはあの日記を読んだときからわかっている
   それでも私は………

「どうするのが正しいんだ? 人間はこんなときにどうする?」
答えられないカミュの眼に夕陽が滲んだ。


                                  



                 どうしても恋愛モードになってくれません。
                 今回は親友路線かもしれません。

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