その16 パリ 3 〜ブーローニュ〜
指紋の鑑定にはまだ日数がかかる。 結果が出るまではどうすることもできないのでミロはカミュの案内で精力的にパリを見て歩くことにした。
時にはレオナールも加わるこの計画はたいへんに有意義でミロの見聞はずいぶん広がった。
「ほんとに俺は何も知らなかったのだな。 こんなにたくさんの物を人間が作ったとは驚きだ!」
ルーブル美術館を見て歩くミロの前に次々と現われる彫刻や絵画は尽きることがない。
「この美術館は昔は王の住まいだったこともある。 例のフランス革命のあとで美術館になったそうだ。」
「こんなところに住んでいたのか? 俺はこんなところには住みたくない。 これは家じゃなくて建物だ。」
「まったくだ。 私も遠慮する。」
そう言いながら、ミロの頭の中にある家はあの海岸の家かもしれないとカミュは思う。
アフリカに帰りたいと言ってはいないが、言葉の端々にずっとこのままパリにいようとは考えていない気配が読み取れる。
「パリは建物ばかりではないから。」
と言ってカミュがミロを連れてきたのはブーローニュの森だ。 街中よりもはるかに木が多いのでミロの気に入るだろうと考えたのだがはたしてその考えは当たったようだ。
「木の種類がまったく違うんだな。」
と言いながらミロが幹をたたいて登りたそうにする。
「いいか?」
「う〜んと………誰にも見られなければ私はかまわないが。」
笑いながらそう言うと、にやりとしたミロが回りを見回してからいちばん下の枝に飛びつくとあっという間に木の上のほうに登っていった。
ジャングルほどには密生していないので、透かしてみるとミロがかなりの高さにいるのが見える。
しばらくすると枝を揺らしながら戻ってきてカミュのそばに降り立った。
「どんな感じ?」
「服が邪魔だし、枝の反発力が弱いな。 それに、幹に蔦が絡んでいないので手がかりが少ない。 でも久しぶりでいい気持ちだ。 カミュも登る?
連れて行こうか?」
「いや、私は遠慮する。 知り合いが来たら困るから。」
本当はちょっと登ってみたかったのだ。 ミロに抱かれて森の中を飛ぶように運ばれたのは夢のような思い出だった。
しかしブーローニュでそれをやったらまずかろう。
もう一度アフリカに行ったらぜひ!
そう言いそうになって危ういところで飲み込んだ。 そんなことを言って、ミロが帰る気になったらと思うとひやりとする。
またあの環境に帰すのは忍びない。 といって、パリがアフリカより魅力的だと思わせる自信もないのだ。
はたしてミロはこの街で、アフリカにいたときのように生き生きと暮らしていけるだろうか。
そんなことを思いながら歩いているとミロがカミュの腕を引いた。
「あれは?」
指差す先に馬場があり、何人もが馬に乗っているのが見える。。
「あれは乗馬の練習だ。 昔は貴族のたしなみであり移動の手段だったが、今は趣味で馬に乗る。」
「やりたい! どうすれば乗れる?」
眼を輝かせるミロはいかにも嬉しそうで、わくわくしているのがはっきりとわかる。
カミュは森の自然がミロの気に入るだろうと考えてここに連れてきたのだが、なるほど、馬も自然の一部に違いない。
そばにいって指導者らしい紳士に声をかけると事務所の場所を教えてくれた。
「乗馬にふさわしい服や靴をそろえなければいけないので今日はできないが、明日からでも練習ができる。 ここで練習してうまくなると森の中のコースを走らせることができるそうだ。 きっと素晴らしく気持ちがいいと思う。」
「それはいい! カミュは馬に乗れるのか?」
「乗れる。 ミロがうまくなったら一緒に森を回ろう。」
「それは面白そうだ!」
文化の鑑賞もいいがミロには身体を動かすことも必要だ。 パリに来てよかったとミロが思ってくれそうなものが見つかってカミュはほっとした。
翌日からミロの乗馬の練習が始まった。 カミュはとっくに乗れるのだが、付き合って一緒に習うことにした。 ミロが一人で不安になるといけないから、という理屈をくっつけてはいるが、要するにいつもミロと一緒に行動していたいのである。
一緒にいたい ⇒ 好き、という理論が頭の中をよぎったが深く考えないことにした。
ほんの二ヶ月前までジャングルに暮らしていて人と接することがなかったのだ
なにか判断に困ることがあって立ち往生したらかわいそうじゃないか!
自分を納得させていざ乗馬が始まると、ミロの覚えがいいことがすぐにわかってきた。
今までは動物を見ると、食べられるかどうかが判断基準だったのだが、どうやらそれはクリアーできたようだ。
背の高いミロが姿勢正しく馬を進める姿はすぐに注目の的となり、カミュにはいささか気になるのだが、日を追うごとにミロに話しかける女性が増えてきた。
挨拶は当たり前としても、順番を待っているときや厩舎での馬の世話の時にはミロのそばには必ず誰か若い女性がいるではないか。
クールに見えるカミュは女性から見ると近寄りがたいのに比べて、カミュから教わったマナー以上ににこやかに挨拶をするミロは誰にでも愛想がよいのでとくに女性の受けがよい。
金髪碧眼というのもその一因かもしれないが。
さあ、カミュにはこれが面白くない。 ミロに異性の知り合いができるのを歓迎するのが筋だとわかってはいるものの、なんとなく嫌なのである。
自分でもおかしなことだと思うのだが、ミロの気持ちがそっちに向くことを明らかに喜んでいない自分がいた。
パリの流行やおしゃれのことしか考えていないような女性はミロにふさわしくないに決まってる
アフリカでのミロを知らないで、ミロと何を語ろうというのだろう
ましてやミロはあのトゥールーズの……!
新たに生まれた感情を嫉妬だと気付いていないカミュが悶々としながら馬具を片付けていると、ミロがお茶に誘われているのが聞こえてきた。
えっと驚いて耳を澄ます。
女の方から男を誘うなど聞いたこともない!
そういう考えの女は淑女ではないから、ますますミロにはふさわしくない!
知らないだろうが、ミロはあのトゥールーズの…!
しかし、その心配は杞憂だった。
「せっかくですが、このあと予定がありますから。」
落ち着いた声が聞こえてきてほっとしているとミロが馬具を持ってきた。
「ご一緒にお茶をいかがですかって言われたが、知らない人間とお茶を飲む理由がなかったから断わった。 あれでよかったか?」
「すごく適切だと思う。 いい判断だ。」
「午後のお茶は君と飲むことになっている。 よい習慣は変えるものではない。」
「ああ、その通りだ。」
ミロがもっと上手になったら馬を買ってもよい
二人で思う存分走らせたらどんなに楽しいだろう
レオナールも馬の達者なのに、そっちの方はすっかり忘れられているのだ。
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カミュ様はともかくその気はありそうです。
さて、ミロ様は?