その17   パリ 4  〜彫刻〜

「昔、貴族がたくさんいて王がこの国を支配していた頃は、どこへでも馬や馬車で出掛けていたものだ。」
「昔って、どのくらい前?」
「う〜ん、たとえば1000年位前は当然そうだったし、つい最近までもそうだったと思う。 だからうちにもその頃の名残りで大きい厩舎がそのまま残ってる。 馬車だけはまだ使っているけれど馬で出歩くことはなくなった。 ともかく、列車や車ができてからは暮らしが劇的に変わったのだ。 君が先日乗った地下鉄は何年か前にできたばかりだ。」
今日の二人はブーローニュの森で馬をゆっくりと歩ませている。 馬の魅力に目覚めたらしいミロに専用の馬を購入する話を持ちかけたところ大賛成されたので、さっそくよい馬を探したカミュは最高の馬具と一緒に乗馬クラブの厩舎に入れた。 カミュが費用を惜しまなかったので素晴らしい馬が厩舎に届き、乗馬クラブの面々をあっと言わせたものである。
「早いのもたしかに便利だが、個人的には馬や馬車あたりが好みだな。 あのくらいの早さなら納得できるが、列車や車はあまり好きになれない。 地下鉄に至っては息が詰まりそうだ。 俺の文明化はそのあたりで止まってる。 類人猿から現代までの何万年もの歴史をいっぺんに辿るのは無理がある。」
「急ぐことはない。 あまりに急激な変化だったので戸惑うだろうが、ゆっくりと自分のものにしていけばいいのだから。」
ミロの乗馬の腕はまだ一人前とはいかないが、自分専用の馬がいるので馬に慣れているカミュが一緒にいるのならという条件で森の散策をしてもいいことになっている。 街中と違って小鳥の声や木々の葉のざわめきが少しはアフリカを思わせた。
「それにしても言葉っていうのは面白いな、あれはいい考えだ。 一人で学んでいたときには理由もなく書いていたのだが、あれは人類の大発明だろう。 」
ミロには列車や車よりも言葉のほうが重要らしい。 言葉の存在を当たり前だと思っているカミュとは違い、ミロにとってはいちばん最初に出会った人間の英知が言葉であったためより印象が深いのだ。
「俺があの小屋で言葉を学んでいなかったら、カミュを助けたかどうかはわからない。 本を見ていたから白い人間がいるらしいことを知っていて、なんとなく仲間意識を感じたのかもしれないな。 」
あの絵本の白人の挿絵の横には Man と書いてある。 蛮族に捕まって今にも殺されそうなカミュを見たときのミロはとっさに 「あっ、あれは Man だ!」 と気付き、小さい挿絵が現実となって目の前に現われたことを知ったのだ。
「では、本のおかげで私は助かったと?」
「本を読まなかったら俺の心は類人猿のままだ。 蛮族がやつらの縄張りで何をしようと、俺や仲間に害が及ばない限り気にしなかったろう。 むろん仲間が捕まったり殺されたりすれば復讐するが、君は仲間ではないからほうっておいたと思う。」
しかしミロの心には人間の意識が芽生えていたのだ。 初めて見る本物の白い人間は強烈な刺激をミロに与えたに違いない。
「で、助けてみたら君が余りにもなにもできないので驚いた。 俺が離れたらすぐに飢え死にしそうだし、たとえ怪我をしてなくても木を渡ることもできなさそうだ。 あんなに手の指が柔らかいのでは木にもろくに登ったこともないだろう。 半日も経たないうちに通りすがりのライオンの餌になりそうだったし、出会わなかったが豹も危険だ。 足の裏が柔らかいので音もなくしのび寄ってきて一撃で首を噛み砕く。 それに豹は木に登る。」
「ん………その通りだと思う。」
海岸にボートでたどり着いて木の上に仮の寝床を作り安心していたのは大間違いだったようで、今さらながらぞっとする。
「助けて本当によかったと思うよ。 俺は君たちの言う神というものを知らないが、このことに関しては神の存在を信じたくなる。」
しみじみとしたミロの言葉がカミュを助けた結果フランスに来て文明を知ったことを指しているのかと思ったのだが、そうではなかった。
「俺は人間の存在を知り、カミュと友達になった。 レオナールもいる。 もう一人ではない。 」
「……え?」
「友達ができたことが嬉しい。 言葉を使って話すことがこんなに素晴らしいとは思わなかった。 みんなカミュのおかげだ。」
ミロがまっすぐにカミュを見た。 澄み切った青い瞳のあまりの真摯さに思わずたじろぐほどだ。
「大人になった俺と対等に付き合ってくれる仲間はもういなかった。 俺は違いすぎたのだ。 それがわかってからは仲間から離れてジャングルで気ままに暮らしていたが俺はいつも一人だった。 今から考えてみても友達と名のつくものは誰もいない。」
考えもしなかったミロの暮らしにカミュは絶句する。 そういえばあのときのミロは一人で行動していて、それは居留地に着くまで変わらなかった。 小屋の外でカミュを襲った類人猿と話はしたが、あれは顔見知りの昔の遊び友達を追い返しただけで、一緒に行動していたわけではないのだ。
「俺は自分を類人猿だと信じていたが周りと違いすぎるのは知っていた。 髪も眼も肌の色も全部だ。 体つきも細くて、みんなのがっちりした身体がどれほど羨ましかったか知れない。 顔が違うことを知ったときはショックだったよ。 あるとき遊び友達と森の奥で小さな湖を見つけて水を飲もうとしたとき、水に顔が映った。 それまでは川の水を飲んでいたので、水が動いていて自分の顔が映らなかったのだ。」
ミロが自分の顔を知らないで育っていたことなど考えもしなかったカミュにはこの話は驚きだ。 あの小屋には手鏡が有ったので、ミロはそのときにさらにはっきりと自分の顔立ちを知ったのだろう。

   それにしても、水鏡で自分の顔を知るとは……なんという暮らしだ!
   たしかにジャングルの中に鏡があるはずはないが、そんなことは考えもしなかった!

しかし、カミュの感慨はまだ浅かった。
「友達の顔はあんなに美しいのに俺の顔はなんて醜いのだろうと驚いたよ。」
「えっ?!」
「だって、友達の鼻はあんなに立派にひしゃげているし、眼だって落ち窪んでとってもきれいだ。 唇も厚くて剥き出した歯はすごく強そうじゃないか。 それに比べて俺の顔にはぞっとした。 白くてのっぺりして気持ちが悪い。 いいとこなんか一つもないと思ったよ。 髪が変な色なのはわかっていたが、目が青いなんてもっと変だ! 蛇だってもっとましな色をしてる。 情けなくて逃げ出したくなったよ、どうしてみんなは俺を見て嫌がらないのかと思ったね。 自分もみんなと同じ顔だと信じていたのですごくショックだった。 自信をなくしてそれからしばらくは誰とも会いたくなかった。」
「ミロ………」
カミュは絶句する。 ミロはとてもきれいな顔立ちで、あんな環境で暮らしてきたのにその美質はなにも損なわれてはいない。 なにも知らずに育っていればこうは行かなかったかもしれないが、たまたま手にした本がミロを導き人間としての知性を目覚めさせたのだ。
「本を見て、少し気を取り直した。 白い人間も黒い人間もいる。 それなら白い類人猿がいたっていいじゃないか。 ともかくみんなは俺を受け入れていたし、カラも俺がいじめられそうになるたびに守ってくれた。 カラは俺の父が白い類人猿だったといったのだから、きっと前に仲間に混じっていたのだろうと考えた。 実際に草原のほうに行ったとき、シマウマの中に真っ白いのがいるのを見たことがある。 鳥の群れにもそんなのが混じってた。 それなら俺もそんな変わり者なのかもしれないし。 」
今は明るく笑っているがその頃はどんなにつらかったことだろう。
「変わり者どころか…!」
カミュがミロの手をつかんで馬を寄せた。 話をしているうちに道は森の奥まで入り込み、あたりには人の気配はない。
「アフリカでは……君の仲間の間では、君は違いすぎたかもしれないが、ここでは、」
なぜだか耳が熱くなる。 あまりにも過酷な環境に育ってきたミロがいとおしかった。 言いたいことを言おうと思った。
「君はとても美しい! 類人猿の基準ではそうではなかったかもしれないが、ミロ、君はともかく美しいのだ! きっと誰でも君に憧れる!その髪の色も青い眼も羨ましがられているのだから、大丈夫だから自信を持って欲しい!ルーブルでギリシャ彫刻を見てわかっただろう!人類の美の理想として作られたあの神々と君はよく似ている。それほど君は美しい!」
男にも女にも、美しい、などと力説したのは初めてでカミュは真っ赤になった。 びっくりしたようなミロに見つめられてますます頭に血が昇る。
「あの………そういうわけだから、ミロには自信を持って欲しいから……」
とうとうカミュはうつむいてしまい、声が小さくなった。 まだミロの手を握っていたことに気がついてそっと手を離す。
「………わかった。」
少しの沈黙のあと、また馬を進め始める。
興奮してあらぬことを言ってしまったような気がしたカミュが話の中身を反芻していると思わぬことに気がついた。 ミロが水に映った自分の顔をあんなふうに思っていたということは………。
「もしかして………私を助けてくれたとき………」
「え?」
「やっぱり思ったのかな? 白くてのっぺりしていて気持ちが悪い顔だって。」
ミロが真っ赤になった。 困ったように上を向く。
「それは………でも今はこう思ってる。 カミュはとってもきれいだって。 ギリシャ彫刻とおんなじだと知っている。」
「ん………それはどうも……」
乗り手の揺れる心を知らない馬がぽくぽくと小径を辿っていった。

                                  



                 さて? これを恋の告白だと言っていいのでしょうか?
                 「 ぽくぽくと小径を辿る 」 って可愛いでしょ。

                 驚いたことにパリの地下鉄は1900年にできたのが最初です。
                 イギリスが世界初で1863年、アメリカは1898年、日本は1927年。
                 ターザンが地下鉄に乗っていたなんて思いたくありませんけど、時代はその頃。
                 街の様子としては 「マイフェアレディ」 が1911年の話なので、
                 だいたいあんな服装を思い浮かべればいいと思います。