その18   パリ 5  〜事件〜

芸術の都パリでミロが見るべきものは多い。
「ぜひオペラ座へ行くべきだ。」
そう主張したのはレオナールである。
「図書館は目を使うし、ルーブルは足が疲れる。 自然との触れ合いとスポーツは乗馬をやってるんだから、あと必要なのは心を癒す音楽だ。」
アフリカ沖での半年に及ぶ勤務を終えて懐かしいパリに帰ってきたレオナールは自分が遠ざかっていた大好きな音楽に浸る巡礼の旅にミロを誘い、ここぞとばかりにモーツァルトやバッハの素晴らしさを教えることに努力を傾注し始めた。
カミュは静かに聴いて音楽に身を浸していれば満足というタイプのリスナーだが、ミロが音楽にはまったくの白紙だったので、音楽愛好家のレオナールは初心者に対する教育熱に目覚めたらしい。
「パイプオルガンは神の声と称される。 サン・トゥスタッシュ教会のオルガンは7000本ものパイプがあり実に荘厳だ、ぜひ君に聴いてもらいたい! バッハは実に素晴らしい響きだよ、バロックの真髄をわかってもらえると嬉しいんだがなぁ。 むせび泣くバイオリン、オーボエの哀調、フルートの音色は黄金のせせらぎだ。 コンチェルトもいいし、大規模な交響曲もいいものだ。 受難曲はまだ早いかな。 案外ドボルザークやスメタナがいいかもしれない。 実は私はパレストリーナが好きだけど。 ともかく自分の好きなものを見つけて楽しむことができるようになってくれればこんな嬉しいことはないよ。」
そうしてレオナールに引き回されていろいろな音楽を聴いた後でミロが好きだと言ったのはモーツァルトとドビュッシーだ。
「モーツァルトの音楽はもうすぐやって来る喜びを待ちきれなくて心が躍るような気がするし、ドビュッシーは月のきれいな夜に夢を見るような音楽だ。」
「実に素晴らしい表現だ! 当たってるよ!」
しかし、ミロがモーツァルトを聴いて連想したのは、狩りに出てじっと身を潜めてイノシシや鹿を待っているときのわくわくするような気分であり、ドビュッシーは遠くに豹やフクロウの声を聞きながら木の枝の安全な高みに身体を寄せて眠るときの幸せな気分を思わせる、と考えていることなどレオナールは知りもしないのだ。
「そこまで説明した方がよかったかな?」
「いや、それは言わなくてもいいと思う。」
音楽をどう受け止めるかはそれぞれの感性だとカミュは考える。 ミロがそう思うのならそれでいい。 モーツァルトもドビュッシーも別に文句は言うまい。

そして、オペラ座の威容はミロを感心させた。 完成して30年ほどたったオペラ座は壮麗かつ重厚だ。
「ここがオペラ座だ、ガルニエ宮ともいう。 この建物の設計をしたシャルル・ガルニエの名を取ったんだよ。 設計というのは、形や大きさや材料なんかを決めることだ。 難しい専門知識が要る。」
しかし初めて聴いたオペラが 「 アイーダ 」 というのはちょっと重すぎたかもしれなかった。
「オペラはどうだった?」
「う〜ん、正直言ってあまり楽しくなかった。 アフリカの話だということだったがとてもそうとは思えなかったし、ラダメスとアイーダは最後に死んでしまうのだろう? どうしても死ななければならないのなら、俺は全力で闘って死にたい。」
今に至るまで多くの人に愛されているベルディ作曲の歌劇 「 アイーダ 」 の舞台は古代エジプトである。 若き将軍ラダメスは捕われのエチオピアの皇女アイーダと恋に落ち、紆余曲折の末にともに潔く死への旅路につくのだ。
しかし、このストーリーはミロの好みではなかった。ばっさりと言われてカミュとレオナールは額を寄せる。 アイーダを推薦したのはカミュなのだ。
「アイーダはよくなかっただろうか?」
「う〜ん、ここはやはりフィガロの結婚がよかったと思うが。 ミロはモーツァルトが好きだし気に入るだろう。」
「しかし、あれはあまりにも恋愛一辺倒だ。そんな内容をどうやってミロに説明するのだ? 火遊びとか誘惑とか、それにあの…」
「ううむ……」
フィガロの結婚には初夜権というとんでもない要素まで含まれているのだが、当然カミュにはそんなことは口が裂けても言えるはずもない。 レオナールもそれに思い当たったようで、二人して顔を赤らめてため息をつく。
結局ミロのオペラ鑑賞はそれっきりだった。

気分よくドビュッシーを聴いた夜のことだ。 カミュに人と会う用事ができたので、ミロは一人で帰ることにした。
夜の空気が気持ちよかったので馬車は呼ばずに2キロほどの道のりを歩いていると昼間の喧騒も遠く去り、それがミロにはこころよい。 数年前の万国博覧会のときに取り付けられたガス燈の列もやがて途切れて暗くなり、人通りもほとんど見えなくなくなってきた。
静かな夜の散策を楽しんでいたミロをはっとさせたのは女の悲鳴だ。
その方角を見ると、暗い路地の奥の方で何人かの男が女の腕をつかんで一軒の家の戸口に押し込むのが見えたではないか。
「誰か、助けて〜!」
悲痛な叫びがドアの奥に消えた頃には、駆け出したミロが早くも中に飛び込んでいる。 暗い廊下の奥に二階へと続く階段があり、階上からかすかに悲鳴が聞こえてきた。
ミロが駆け上がってゆくと部屋の中で若い女が屈強な男に首を締められて悶えているところだった。 物も言わずに男の襟首を引っつかんだミロは、抵抗する暇も与えずに男をやすやすと壁に投げつけた。 予想外の展開に女が息を呑む。 男は目を回してしまったが、残りの男たちが一斉にナイフを抜いた。 
「なにしやがる、若造っ!」
ミロの唇に不敵な笑みが浮かぶ。 パリに来てこんな面白いことは初めてなのだ。
「やっちまえ!」
荒くれ仕事に慣れた男たちには、ミロはただ背が高いだけの暇を持て余した金持ちに見えたに違いない。 この男たちはコンサート帰りの有閑青年をうまく連れ込んで有り金を巻き上げて放り出すことを生業としている悪党なのだ。 実は襲われた女もその仲間で、何も知らない善良な市民を誘い込むためのおとりの役だ。 部屋に誘い込んだところでナイフをちらつかせれば、そんな恐ろしい目に遭ったことのない軟弱な金持ちは恐怖におののいてたっぷりふくらんだ財布を素直に差し出してくれるのだから、こんなに美味い商売はない。
しかし、この背の高い青年をこれまでのカモと同列に考えたのは彼らの大きな間違いだった。 おそれおののくどころか、にやりと笑ったミロは突き出されたナイフをあっさりとよけると、男の手首を握って鮮やかに相手の身体をひねってしたたかに床に叩き付けた。 ぎゃっという凄まじい悲鳴が上がる。 続いて、なにかわめきながら突きかかってきた男の足を払い、片腕でベルトをつかんでぶんっと投げつけると羽目板に身体が半分ほどめり込んで男が気を失ってしまった。
「やれやれ! 一番弱いライオンだって、もっと手ごたえがあるんだが。」
ミロにすれば子どもと遊んでいるようなもので手ごたえがなさ過ぎるのだが、それでも野生の血が疼きだす。 ジャングルにこんなに弱い敵はいないが相手をしてやってもいいだろう。
この様子に仰天したのは襲われ役の女だ。 すごまれて真っ青になって震えているはずの紳士がまるで野獣のように暴れまくって、腕っぷしには自信のあるはずの男たちをぽんぽんと投げ飛ばしたのだから驚かないはずがない。
「あいつは悪魔だよ! どういうことなのさ!」
隙を見て廊下に逃げ出し階段を駆け下りた。
ミロが気分よく周りを見回した。 三人の男がだらしなくのびていて、残っているのはたったの一人しかいない。 もっといるといいんだが、と残念に思いながらそっちに向いた。 薄っぺらな文明の殻を脱ぎ捨てたミロは獲物を狙う狩猟者の感覚を取り戻したのだ。 こころよい闘いに身を任せる喜びが身体の中を駆け巡る。
さあ、そうなるとただ一人残った男は恐怖に駆られ叫び声すら出てこない。 まるで血に飢えた野獣と一緒に檻に閉じ込められたような気がしてこの世の終わりが来たような気分になった。 最後のあがきで滅多やたらにナイフを振り回す男に無造作に近寄ったミロは暴れる男の身体を両手で持ち上げるとドアに向かってぶんと投げ飛ばし、バリバリと大きな音を立てて分厚い扉板ごと吹っ飛んだ男は廊下の壁にしたたかに身体を打ち付けて気絶してしまった。
そこへ駆けつけてきたのは巡回中の警官隊だ。 外の道をパトロールしているとすぐそばの家から凄まじい物音と悲鳴が聞こえてきたのでそれっと駆けつけてみると、道路に飛び出してきた女が、「恐ろしい男が中で暴れていて友人たちを叩きのめしている」 と訴えたのだ。
すぐに建物の中に入り二階へ駆け上ると、いきなりドアを破って男が廊下の壁にぶつかってきた。 ピストルを抜いて室内に入ると背の高い男が立ちはだかっていて周りには何人もの男が倒れてうめき声を上げている。 室内はめちゃくちゃで乱暴狼藉が行なわれたのは明らかだ。  あらての敵の参入に振り返ったミロが身構える。
「おとなしくしろ!」
ピストルを構えた警官がミロに狙いをつけた。


                                  



                  突然の急展開!
                  どうする、ミロ!!