その19 パリ 6 〜警察〜
この家には電気は引いてなくて部屋の明かりはランプ一つきりだ。
ミロは新たな敵の出現に気がついたが、それが警官だとは考えていない。 薄暗くて制服の見分けもつかなかったし、闘いの喜びに沸き立っていたので次の標的が現われたと思ってさらに好戦的な気分が増した。
ピストルに気付いて止まると思った男が恐れる様子もなく近づいてきたのに意表を突かれた警官が威嚇射撃をし、弾が床に当たった。
その瞬間、ミロが警官の手を撥ね上げて二発目が天井に当たる。 相手の身体を横に振り飛ばしたミロが警官の真ん中に飛び込んだので危険すぎてピストルは使えなくなり、あとは掴みかかって押さえようとしたのだがジャングルで鍛えたミロには蟷螂の斧ほどにも役に立たなかった。
床に叩きつけられ、あるいは胸ぐらをつかまれて投げ飛ばされてまったく歯が立たないのだ。
「抵抗するな! お前を逮捕する!」
それでも勇敢に立ち向かってきた警官が叫び、その時になってミロはやっと相手が正規の警察官であることに気がついた。
すぐさま身を翻して窓に向かうと窓枠に飛び乗りあっという間にその姿は消えた。
「つかまえろ! 逃がすな!」
駆け寄って窓から下をのぞくと、道で見張っていた警官は、猫の子一匹 降りてこなかったと言うではないか。
「そんなはずはない! よく探せ!」
倒れている同僚を助け起こして手分けしてあたりを探したがその姿はもうどこにも見えなかった。
たった一人の男に子どものようにあしらわれた不快さにむっとしながら部屋でのびている男たちを調べると、どれもこれも札付きの悪党ばかりなのだ。
あきれながら縛りあげて下に連れて行くと、見張りの警官がつかまえておいた女も悪事の片棒を担いだ前科があって警察には御馴染みの顔だ。
「なんだ、貴様ら! どういうわけかゆっくりと聞かせてもらおう!」
見かけは紳士然とした青年にあっという間に叩きのめされた屈辱は忘れようとしても忘れられるものではない。
ミロにやられた痛みに呻きをあげる悪党を鬱憤晴らしに小突きながら一同は引き上げていった。
この一部始終をミロは屋根の上から見物していた。 窓から飛び降りる前にいつもの習慣で下を確認したミロは警官が立っているのに気付き、窓の横3メートルの距離にあった電柱に軽々と飛びつくとするすると上にのぼり屋根の上に身を伏せたのである。
そんなに離れたところに人が飛び移るとは想像もしない警官は屋根を探すことなど考えもしなかったので、ミロは彼らが立ち去るのを悠々と待つだけでよかったのだ。
じっくりと見ると、最初にミロが叩きのめした男たちを縛り上げて連れていったのは確かに本物の警官だ。
「さて、まずかったかな? そうはいっても、そもそも野蛮人の俺に咄嗟に区別をつけろというのも無理な話だ。」
また電柱に移ってすとんと地面に降りる。 服の埃をはたいて曲がってしまったタイを整えたミロはお気に入りのドビュッシーを口ずさみながら帰路についた。
次の朝、食事のあとのコーヒーを飲みながらミロが話した冒険談はカミュを驚愕させた。
「なんだって! 本当に……っ?!」
心臓が止まりそうで、喉には冷たい塊がこみ上げてくる気がする。
「そ、それは……!」
「大丈夫だよ、俺はかすり傷一つしてない。 向こうのことはわからんが。」
「いや、君が無事だったろうことは確信があるが、このままにしておいてはいけない! すぐに警察に行って事情を話したほうがいい!」
「そうかな?」
「そうだよ!あっちから来られるよりは自分で行った方がまだいい!」
一人でミロを連れていって、カンカンに怒っているだろう警察相手に冷静に事情を話せる自信はカミュにはない。 すぐさまレオナールに使いをやって、一緒に行ってもらうことにした。
「やっぱりまずかったかな。」
そう言いながらミロはさっぱり気にしていない。 か弱い女を守るのは男の義務だと教わっているし、素手のミロに対してナイフを出して襲い掛かってきたのは相手のほうだ。
「いや、この場合、重大なのはそっちじゃなくて!」
駆けつけて来たレオナールと一緒に馬車に乗り込んでミロに警察官の役割や義務を説明するのに時間を費やしていると、ミロもようやくことの重大さがわかったようだ。
「それは悪いことをしたな。 謝らなきゃ。」
フランスの法制度では謝るだけでは済まないことをどうやってミロに理解させればいいのか、二人は嘆息する。
「ここはジャングルじゃなくて、みんなが法律に従って暮らしているので…」
だからといってミロに逮捕される可能性もあると言いたくないのは二人とも同じなのだ。
公務執行妨害とか傷害罪とかをミロに理解させるのは無駄な努力のような気もするではないか。
下手をすると怒り心頭に発したミロがその場で昨夜の修羅場を再現する可能性もあると思うと冷や汗が出る。
「ともかく事情をよく説明してわかってもらおう。」
「ああ、やってみよう。」
不安を抱えた二人が楽観的なミロを伴って訪れた管轄の警察署はカミュが指紋の調査の依頼をしたのと同じなのが幸いして、あの警視が応対に出てくれたことにほっとする。
「実は…」
カミュが緊張した面持ちで用件を切り出すと、意味ありげな笑みを浮かべた警視が、
「ちょっとお待ちを。」
と言って銀鈴を鳴らして部下を呼んだ。
「昨夜の一件で話がある。 ディスマルクたちを呼んでくれ。」
警視が向き直る。
「昨夜はちょっとした騒ぎがありましてね。 お話を伺えば、どうやらそこにおいでの紳士が関係していることは明白ですな。
だが、ご安心ください、最初に叩きのめしてくれたやつらは札付きの悪党で、女の方も一味です。
正直な市民を誘い込んで金を巻き上げるとんでもないやつらです。 おかげで検挙できました。」
「えっ、そうなのですか!」
カミュとレオナールの肩の荷が一つおりたが、もう一つのほうはもっと重大だ。
「部下たちはたった一人の男に手玉に取られたことをずいぶん不愉快に思っていまして、この場に全員を呼んで説明した方がよさそうです。
それから、」
警視がミロに話しかけた。
「あなたはパリに来て間もないからまだよくお分かりではないと思いますが、彼らは善良な市民を守るために日夜働いているのです。 勘違いとはいえ、あなたはその彼等を手ひどい目に遭わせたのです。」
諭すような言葉にミロが頷いたときドアがノックされて昨夜の警官隊の面々が入ってきたが、中にミロがいるのに気がついてぎょっとする。 昨日の大立ち回りを演じて自分たちをひどい目に遭わせた当の本人が目の前にいたのだから、屈辱の記憶がまざまざとよみがえり腹立たしいことこの上ないのだ。
「君たちを昨日痛い目に遭わせた紳士が反省して謝罪に来られたのだ。」
警視がそう言ったが、部屋の空気は緊張をはらむ。
しかし、この不穏な空気を一変させたのはミロだった。 すっと立ち上げると両手を広げていちばん近くにいたディスマルクに、
「昨夜は勘違いしちゃって皆さんに迷惑をかけてすみません。 この通り、謝ります。
これからは友達になりましょう!」
といかにも申し訳なさそうに言ったのだ。
手を差し出されたディスマルクはあっけに取られてそれでも手を握り返す。 ミロに叩きのめされたのは悔しかったが、ここまで気持ちよく謝られると悪い気はしない。
そして警視に促されたカミュは30分以上かけてミロの驚くべき生い立ちを話し、自分が危機に陥ったときミロがいかに超人的力を発揮して助けてくれたかを説明した。
「だから君たちがこの紳士にしてやられたからといって、非難するのも屈辱を覚えるのも間違いだ。獰猛なライオンと一緒の檻に入れられて勝てるはずはない。 負けてもけっして恥にはならないから安心したまえ。」
唖然として聴いていた警官たちはあらためてミロの堂々たる体躯を見て昨夜の敗戦を納得した。 こうして和解が成立し、その後ミロの友達にこの勇敢な警官たちが加わった。
ミロのことは警察署で話題になって、恐れず勇敢に闘った警官たちはおおいに男を上げたのだった。
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この展開はほとんど原作通りです。
熟読して覚えていたストーリーをできるだけ生かして書きました。
ミロの謝罪の言葉もそのまま使いました、たぶん、こんな風だったと思います。