その2

幾つもの尖った槍先がカミュの腕や足を狙い今にも凄惨な儀式が始まろうとしたそのとき、一人の男が突然ギャッと叫んでのけぞった。 なにが起こったかわからなくて男たちが慌てふためいている最中にさらに続けて二人の男が悲鳴を上げてその場に昏倒した。 全員が浮き足立ったとき太い槍が飛んできて彼らの真ん中の地面に突き立つと同時に鋭い叫び声が響き渡り空気がびりびりと震撼したのだ。
カミュもぞっとしたが迷信深い蛮族の反応はもっと早かった。 悲鳴を上げてわれ先に逃げ出して、空っぽになった広場には三人の男が倒れているだけだ。
誰かが助けに来てくれたのか、それとも新たな敵が現われたのか区別がつかずにいると、後ろの茂みから何かが近づいてくる音がする。 これ以上の緊張に耐え切れず神経が焼き切れそうになったとき、いましめられていた縄がばらりとほどけて地面に落ちた。 あっと思ったときには軽々と抱えあげられている。 しかし、またどこかに連れて行かれるのかと恐怖を覚えたカミュが絶望の中で見た相手はなんと白人の若い男だったではないか。

   ………えっ?

多少は日焼けしているものの、確かに白人には違いない。 それが証拠に肩よりも少し長い金髪は豊かに波打ち、きれいに澄んだ青い瞳も蛮族のものではありえないのだ。 腰だけはなめした革で簡単に覆っているがあとはまったくの素裸で、首にはどうしたことかきらきら光る大きなペンダントを下げている。 縄をあっさりと断ち切ったナイフが腰に下げられていて、肩には矢筒と弓をかけていた。 しかし、こうした細かいことにカミュが気付いたのはもっとあとのことだ。 なにしろ抱えられたと思ったとたん、その男は身軽く近くの枝に飛び上がり、反動をつけてさらに高い枝まで飛び移ると驚くべき速さでジャングルの中を移動し始めたのだ。 目が眩むような高さを運ばれていくのはある意味爽快だが、これから自分を待ち受けている運命を思うととても楽観視はできないのだ。 
耳元を風がゆき過ぎ、木々の葉の重なりはあっという間に男の前に道をあける。 誰でもためらうような高さから一気に5、6メートルも飛び降りて次の枝に移ったときなどはあまりの驚きで気が遠くなりそうだった。 そんなふうにして移動していてもカミュを抱く手はいささかも揺るがない。 まるで赤子を抱くようにやすやすと大人一人を抱えあげるその力にカミュは驚嘆していた。 最初の驚きと恐怖はどこへやら、いつの間にかカミュはこの情況を楽しんでいる自分に気付いたものだ。
そんなふうにして30分も進んだろうか、夢のように思えた不思議な旅が終わったのは突然だ。 枝で弾みをつけながらいきなり10メートル以上も下降してかなりの広さの空き地に降り立った。 どきどきしてあたりを見回していると、カミュをそこに座らせた男は、待っていろ、というような身振りをしてジャングルの方に行く。 背の高い後ろ姿の肩の筋肉がきれいに盛り上がり背筋も見事なのがカミュの眼を惹いた。 広い背中に続く腰はきゅっと引き締まって均整が取れており、まるで生きて歩いているギリシャ彫刻のようで惚れ惚れと見つめてしまう。 むろん人の裸など見たことはないが、彫刻という形でなら何度も眼にしているのだ。 人類の理想を具現化したような男の体躯はカミュを魅了せずにはいられない。 その姿が木々の間に隠れるときになって初めて、一人残される恐怖がこみ上げてきて怖くなって呼びかけてみたが、男は振り向きもせずあっという間に木の枝に飛び上がり姿を消した。
どうやら蛮族に殺されるのはまぬがれたようなのだが、男の意図もわからなければ戻ってくるかどうかも謎なのだ。 戸惑っているとだんだんジャングルの静寂が身に沁みてきて、右も左もわからない密林の中で命を終わるのではないかという不安がこみ上げてくる。 30分ほどが経ち緊張の糸が切れようとしたとき急に右手の藪から物音が聞こえてきてぎょっとする。 しかし現われたのは両腕に果物を抱えた男で、すたすたと歩いてくると地面に果物を置いてカミュを差し招く。 友好的なのは間違いないようでカミュはほっとした。              
男はカミュが食べるかどうかはとくに気にしない様子で果物を幾つか食べるとまたしばらく姿を消し、次に現われたときには柔らかい青草をいっぱいに抱えてきた。 近くの木の枝を無造作に折り取り、広場の中央に丸く敷き詰めると青草を乗せて、なるほどこれが今夜の寝床らしいのだ。 このあたりの木々は密生していて野獣は侵入してこれないのだろう。
また手招かれたカミュが念のためフランス語で話しかけてみると、唸るような返事が返ってきてまったく話が通じない。 英語、ドイツ語も試してみたが反応はなく、まさかと思ったラテン語もだめだった。 せめて名前でもと思いついて自分の胸を指差して 「カミュ、カミュ」 と繰り返すと、やっと返事が返ってきた。
「ミロ」
誇らしげにおのれの胸を親指で指差した、それがこの男の名前だった。