その3

やっと意志の疎通ができたことにほっとしたカミュがこれから先いったいどうしたものだろうと考えていると、ミロに左肩を指差されたのは怪我のことを言っているのに違いない。 助けられて森の中を飛ぶように運ばれて来た興奮ですっかり忘れていたのだが、槍で刺された痕がじんじん痛む。
そっと肩を出してみると、5センチほど切り裂かれていてまだ血も固まっていないのだ。 こんな怪我をしたのは生まれて初めてで蒼ざめていると、また密林の中に入っていったミロがすぐに戻って来て手には柔らかそうな草の葉を何枚も持っている。 それを手でしばらく揉んでいたミロはいかにも自然にカミュの肩に顔を寄せ傷口を舐め始めた。 あっと驚いて身体を固くしているカミュにはかまわず胸の切り傷にも唇を寄せたミロは丹念に傷をきれいにすると揉んでおいた草の葉の汁を擦り付け、大きな葉をあてがって包帯のかわりにしたのだ。
なるほどこの環境ではそれしか方法がないのだろうが、いきなり傷を舐められたカミュの驚きはたいへんなものだった。 驚愕の次に緊張がきて、それからゾクゾクするような感覚が背筋を這いのぼってきて頭にかっと血がのぼる。 理由もなくドキドキする胸を抑えかねているのに、ミロのほうはこれでもう終わったというようにごろりと横になり手枕をすると目を閉じてしまった。

   まったくなんという男だろう!
   蛮族ではないし、たった一人でこんなところに住んでいるのだろうか?
   明らかに白人なのに、なぜ?

次から次へと疑問が湧いてくる。 明日からの我が身がどうなるのかということも忘れてミロの顔をまじまじと見ていると突然青い目が開いて見つめ返された。 わけもなく真っ赤になって目をそらすと、ミロはなんとも思わなかったようで再び目を閉じただけだ。
どきどきしながらそっと盗み見た広い額は聡明そうで目鼻立ちも美しく整っている。 夕闇が迫ってきて色の判別も難しくなってきたが、波打つ金髪は豊かで美しくさえ見えた。 もしパリの社交界にいたら、どれほど婦人たちの注目の的になることか。
青草の寝床はそれほど広くない。 ミロに触れないように注意深く横になる。 痛む肩をかばうとどうしてもミロと向き合ってしまい、見まいとして目を閉じると今度は規則正しい寝息が気になってならないのだ。
パリの友人の中にはすでに結婚している者もいるというのに、カミュが初めてベッドを共にするのは言葉も通じない半裸のミロで、しかもそのベッドは青草で。 苦笑していいのか悲観するべきなのか、刺激的すぎる一日を思い出しながらいつしかカミュも眠りに落ちていった。

翌朝目覚めるとミロがいなかった。 急に不安がこみ上げてきて、あの名前しか知らぬ人物にいかに頼っていたのか、カミュは思い知らされた。 また蛮族に見つかったらあっという間に捕われて殺されるほかはなく、猛獣が襲ってきても一巻の終わりだろう。 パリで身につけた教育やマナーなど何の役にも立たない世界にカミュはたった一人ほうり出されているのだ。
そこまで考えたとき、どこかで猛獣の吼える声がして心臓がびくっと跳ね上がり血の気が引いた。 名前しか知らない男に保護されるしかない自分の弱さが情けないが、事実は事実だ。 ミロに助け出されていなかったらとっくに殺されていただろう。
そんなことを考えていたのでやっとミロが戻って来たときには思わず駆け寄りたい衝動を抑えるのに苦労した。 昨日とは違う種類の果物を持っているところをみると、朝食探しに出掛けていたらしい。
青草のうえにあぐらをかいたミロと一緒に食事をしながらその胸に輝くペンダントが気になってつい見つめているとミロもその視線に気付いたらしい。 手まねで、見せてくれないか、と頼んでみるとあっさりと首からはずして手渡してくれた。
中央に素晴らしいサファイアがついていてその周りは小粒のダイヤモンドで囲まれている素晴らしい品だ。 いったいどこで手に入れたのだろうと首をかしげながらひっくり返すとパリの有名な宝石店の名前が小さく彫ってある。 ますます驚きながら調べてみると、小さな留め金があって、それはロケットなのだった。 興味を持ったカミュがぱちんと開いたときのミロの驚きはたいへんなものだった。 カミュの手元を覗き込んでじっと見ているところを見ると、これが開くことを知らなかったに違いない。
しかし、もっと驚くべきことはロケットの中の小さな肖像画だった。 象牙に緻密に線彫りされているのは若い男性で、なんとその顔がミロそっくりだったのである。 驚いたカミュが肖像画とミロの顔をまじまじと見比べていると、カミュの手からロケットを取ったミロがしげしげと肖像画を見た後でぱちんと蓋を閉じると首にかけてしまった。
新たな謎の出現に驚いたカミュが、
「まったくわけがわからない!いったい君は誰なんだ? どうしてここにいる?」
と思わず口走り、それから言葉の通じないことを思い出して苦笑していると、ミロが矢筒の蓋を開けて何本かの矢を取り出すと底から何かを引き出した。 乾いた木の葉で丁寧に包まれているのをミロの長い指が器用にほどき、中から出て来たものはあきれたことに皮表紙の手帳と鉛筆だ。

   ………え?

唖然としたカミュが見ていると、ミロはちょっと変わった手つきで鉛筆を持ち、古びたページにゆっくりと字を書いた。 それもれっきとしたフランス語で。

  
君と話がしたい。 これが読める?

真摯な青い眼がカミュを見つめていた。